礼拝メッセージ2022/01/16

2022年3月1日

2022年1月16日
聖 書: マタイの福音書28:18-20
18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
題 目: 主の弟子として生きる。②

先週は弟子とは何かを言う前に権威に従うことに対して学びました。特に私たちの生活のなかでつまり、国、会社、学校、家庭のなかで権威がある人に従うことに対して聖書はどのように教えているのかを探ってみました。私たちがイエス様の弟子になるためにはイエス様の権威に従うことから始まりますが、なぜこの世の権威者たちに従うことに対して学んだかというと第一ヨハネの手紙4:20-21はこのように書いています。
20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。とあります。
言い換えれば、主イエスキリストの弟子になりたいとイエス様の権威に従いますと言いながらも権威者たちにわざと従わないし、憎んでいるなら、その人は偽り者だからなんです。聖書の原理は目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできないということです。イエス様の権威に従おうとする者は世の権威者にも従うべきです。私たちはこの命令を神から受けています。
このことを覚えながら今日主の弟子とはなにかに対して学んでいきたいと思います。

キリストの弟子とは
さて、19節に書いてあるように、あなたがたは、すなわち私たちは行って、あらゆる国の人々を弟子とし。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授けなければならないのですが、「キリストの弟子とは何か」を正しく知ることが大切です。
弟子になるためには、先生(キリスト)の権威に従うこともう一つ大切なことがありますが、それはイエス様ご自身が私たちに教えてくださいました。
20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

キリストの弟子は、主イエスキリストの弟子であって、牧師でも他の誰かの弟子でもありません。簡単にいうと「キリストに従う人」が、キリストの弟子です。そして、キリストに従うことは、「キリストのすべてのみ言葉に従うことを意味します。
み言葉に従う人、み言葉を守る人、御言葉に生きる人、これがキリストの弟子です。
これはクリスチャンとしてあたりまえのことです。私たちは聖書のみ言葉を信じています。神様のみ言葉を守る者たちです。すなわち、キリストの弟子です。
このことに対してイエス様はかつてイエス様を信じるユダヤ人たちにこう言いました。ヨハネの福音書8:31節です。
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

従って、キリストの弟子とは伝道ができるとか、信徒のリーダーになるとか、才能があって教会のいろんな奉仕ができるとかのことではなく、イエスキリストのみ言葉にとどまる人ですね。み言葉にとどまることはみ言葉を行うことを意味します。ヨハネの福音書15:10です。
わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。

み言葉を守れない、守らないクリスチャンたち。

私たちは礼拝の説教だけではなく、聖書の学習会やインターネット通して個人的に聖書を読んだりしています。それ故に聖書の知識は高まっています。
しかし、どうでしょうか。私たちは果たしてみ言葉に従っていると自信もって言えるでしょうか。言えないならその理由は何でしょうか。実は私も含めて多くのクリスチャンはみ言葉を守れてないと言っても過言ではない厳しい現実があります。み言葉を守らないのです。

例えば[エペソ人への手紙 6:1,2,3,4] 1子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。2「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。3「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。4父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。とあります。

本当にはずかしいことですが、親は子どもを怒らせず、主の教育と訓戒によって育てなければならないのですが、子どもをがみがみ責めて怒らせたり、過干渉になって、怒らせたらしています。反対に子どもは、親を尊敬して従うべきなのに反抗したり、親の言葉を無視したりするのです。

[エペソ人への手紙 5:22,23,24,25] 22妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。23キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。24教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

そして、夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。とありますが
どうでしょうか。妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。も同じです。
このみ言葉を本気で受け止めないで読んで実際の生活の場で適用しないで聞き流し、感情に従って生活しています。私たちいったい誰の弟子なのでしょうか。私の感情コントロールしているのは誰でしょうか。
これから私も実践しようと思いますが感情が自分を支配されようとするとき。そのとき、神様はとこにおられるのかを考えることです。当然、訓練が必要です。神様は私たちが、み言葉ではなく自分の感情に従って動こうするとき、なにもなさらず、ただ私たちを放置して置くのではなく心を痛めながら涙をもって私たちが本気で御言葉に生きることを決断し助けを求めるその時を待ち望んでおられるのです。
ヨハネの福音書14:21
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。

私たちクリスチャンは聖書を学んでいながら行わないのです。それで教会が祝福を失っています。私たちはみ言葉に立ち返らなければならないのです。すべての人をキリストの弟子にしていかなければならないのです。伝道ができる特別な人を育てることとか。リーダーとして奉仕ができる人を育てることも大切ですが、それよりイエス様が望んでおられる弟子とはみ言葉に従う人になることです。
つまり、主の弟子として生きる。ことは常にみ言葉を本気で守って従っていくことを意味します。

これから私たちはすべてのクリスチャンをキリストの弟子として育成しなければなりません。