テトスへの手紙 1:1ー9

2022年2月23日

聖書箇所

[テトスへの手紙 1:1ー9]

1神のしもべイエス・キリストの使徒パウロから。──私が使徒とされたのは、神に選ばれた人々が信仰に進み、敬虔にふさわしい、真理の知識を得るためで、
2それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。
3神は、定められた時に、みことばを宣教によって明らかにされました。私はこの宣教を、私たちの救い主である神の命令によって委ねられたのです──
4同じ信仰による、真のわが子テトスへ。父なる神と、私たちの救い主キリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。
5私があなたをクレタに残したのは、残っている仕事の整理をし、私が命じたとおりに町ごとに長老たちを任命するためでした。
6長老は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、子どもたちも信者で、放蕩を責められたり、反抗的であったりしないことが条件です。
7監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、
8むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、
9教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。

本文の注解
新約聖書でテモテへの第一の手紙、テモテへの第二の手紙、テトスへの手紙は牧会書簡と呼ばれる。牧会書簡には、イエス・キリストの直接的な使徒の時代が終わり、次の世代のための教えが含まれている。従って牧会書簡は、使徒時代以降の教会の状況の中で理解するべきである。

この時の状況は教会が組織化され、健全な教訓と教会秩序、そして聖職制度が要求されていた。
何より真理に反する偽の教訓とそれを主張する異端者が出現するようになっていた。
しかしそれは逆に教会の中に正しい教訓を立てるきっかけとなった。
一方、イエスの直接使徒の時代の以来、弟子も新たに変遷した。
当時は、家族はもちろんこと、すべてを捨てなければ弟子にはなれなかったが、今は模範的な市民像が信仰者の姿として求められている。
このような牧会書簡の思想は、キリスト論的な概念より現実的な救いの意味、つまり信者がこの世の中でどのように生きるべきかに主要の点を置いている。現実的な救いの意味に対する絶え間ない強調している。
つまり「すでに」実現されている救いと「まだ」完成されていない救いの間で模範的な市民として「善い行いの証拠」を促している。
これは、まず使徒の権威として建てられた教会の指導者たちに求められている(Ⅰテモテ3:1-13・Ⅱテモテ2:24-26、テトス1:5-9、2:1-10)。

パウロは偽りの教師たちや、偽りの教訓が溢れている教会に向かって自分の使徒職に対してしっかりと宣言する。彼は神のしもべイエス・キリストの使徒である。

彼が神様とイエス・キリストの使徒になったのは、神に選ばれた人々が信仰に進み、敬虔にふさわしい、真理の知識を得るためであった。(1節)。
神様に選ばれた者の信仰と真理の知識は、永遠の命に基づく。
それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものである。(2節)。

神は、定められた時に、みことばを宣教によって人々がこの命に対して知るように明らかにされた。パウロは、この宣教を、私たちの救い主である神の命令によって委ねられた。(3節)

テトスは異邦人だったがパウロが伝えた福音を聞いて回心、それから彼はパウロが福音の仲間となり、パウロの伝道旅行にも一緒に同行した。パウロの手紙には彼の名前は約13回言及されている。

パウロはテトスとクレタで一緒に働いたが、彼をそこに残した。
その後、同じ信仰による、真のわが子テトスに手紙を書く。(4節)
手紙にはテトスをクレタに残した目的が書いてある。その目的とは残っている仕事の整理をし(1:10-2:1異端者の口を封じすることと健全な教えをすること)、パウロが命じたとおりに町ごとに長老たちを任命するためであった。(5節)
初代の教会の長老は今日の教会の牧師にあたる職分で霊的な指導者を意味する。

従って長老は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、子どもたちも信者で、放蕩を責められたり、反抗的であったりしないことが条件であった(6節)

そして監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきである。
わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければない。なぜなら健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためであった。

神は永遠の昔から二つの重要なことをなさっていた。これは「いのち」と「約束」である。
一つは、ご自分の中にあるいのちを御子に与えて、御子のうちにいのちがあるようになさったことである。(ヨハネ5:26)。
それ故、永遠のいのちの基本的な定義は「御子キリストのうちにある」のである(ヨハネ1:4・Ⅰヨハネ5:11)。

もう一つは、御子のうちにあるいのち(永遠の命)を私たちに与える約束である。(テトス1:2)。それは偽ることのない神が永遠の昔から約束なさった真実な約束である。

神様はこの約束を守るために昔からつまり、世界の基が据えられる前からキリストを遣わすことを定めておられた。(Ⅰペテロ1:20)
今は永遠のいのちは神様が定めになった時に来られた御子キリストを通して福音によって与えられる。

新約時代の福音はイエスキリストが私たちにいのちを与えるために十字架に死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたことである。(Ⅰコリント人への手紙15:3-4)
そして、私たちがキリストとともに葬られ、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように私たちも新しいいのちが、つまり、偽ることのない神が永遠の昔から約束なさった、永遠のいのちが与えられるようになった。(ローマ6:4)
このいのちは神様と御子キリストとの交わりによって喜びとなる。(Ⅰヨハネ1:3-4)

パウロは自分の使徒職は、神様が選んだ者たちの信仰を固く立たせ、彼らに真理を悟らせることにあると明らかにしている。そしてこの信仰と真理を知る知識は、昔、約束された永遠のいのちに基づく。

従って、永遠のいのちを知ることは、クリスチャンの信仰と真理を知る知識と直結する。
神はすべての人が救われて、真実を知るようになることを望んでおられる。(Ⅰテモテ2:4)
しかし、クリスチャンであっても永遠のいのちに対して無知でありならば、真理を知る知識には至れない。

何よりも永遠のいのちに対する無知は常に偽りの教えに従う道に導く。
9節でみ言葉を教える者(長老)はまず、自らしっかりと守っていなければならない。
そして、健全な教えをもって他の人を励ますことも大切である。また反対する人たちを戒めたりすることも大切である。

従って約束のいのちに対して無知な指導者は自分も騙され、他の人も騙す偽りの教師と転落する。
その結果は実際の生活のなかにあらわれる。
彼らは神を知っていると言いながら行いでは否定する。(1:16)

長老と監督職は約束されたいのちを得た者に求められる使命である。
なぜなら、永遠のいのちがなければ結局、世界の風潮に従うことしかできないからである。
キリストのいのちがある時、初めてキリストによる信仰生活がはじまる。

私の黙想
私は神様が送ってくださる聖徒(信徒、信者)たちの信仰を堅く立たせ、永遠のいのちに対して教え、真理の知識を得るように導く牧師として選ばれた。
しかし、どうだろう。イエスキリストを信じる目的をこの地上の豊かな人生に合わせてみ言葉を教えたならば私は失格だ。

果たしてイエスキリストを信じる目的が地上の豊かな人生にあるのか。

今日のみ言葉は、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければならないこと。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることを教えている。

キリストの福音を伝える者はまず、自分がいのちのみ言葉に従って生きることが大切だ。

神学校のときに聞いた話だが、ある教会に熱心な年配の信徒さんがいた。牧師は彼を長老として立たせようと聖書勉強会を開き絶えずに聖書を教えていた。ある日、彼が牧師の元に訪ねて来てこう言ったそうだ「牧師さん。今までお世話になりました。私はもうイエス様に対して随分教えていただきました。他の神様も勉強したいので来週からは別の宗教に移ります」と。
聖書を説明するばかりで終わるのではなく、み言葉によって生きる時、その御言葉はいのちとなり、どんな境遇にあっても勝ち抜ける力となる。

黙想の祈り
神様。今、私は何を教えているでしょうか。いのちの御言葉の前にひれ伏します。
御言葉を説明する牧師ではなく、御言葉によって生きる牧師となりますようにしてください。
イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン