テトスへの手紙 2:1-10

2022年2月23日

聖書箇所

[テトスへの手紙 2:1-10]
1しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。
2年配の男の人には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。
3同じように、年配の女の人には、神に仕えている者にふさわしくふるまい、人を中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。
4そうすれば、彼女たちは若い女の人に、夫を愛し、子どもを愛し、
5慎み深く、貞潔で、家事に励み、善良で、自分の夫に従順であるように諭すことができます。神のことばが悪く言われることのないようにするためです。
6同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。
7また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、
8非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。
9奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、
10盗んだりせず、いつも善良で信頼できることを示すように勧めなさい。それは、彼らがあらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。

本文の注解
テトスへの手紙1章では、指導者を立てることとユダヤ教に起源を置いた異端の思想について言及する。
指導者になることと異端の思想から抜け出すことは、聖徒の信仰がみことばの中心にある時である。
2-3章でパウロはテトスに福音(正しい教訓)に一致した生き方を教えるように命じる。

2章では、家庭の規律の形の教会の規律を、3章は一般的な規律を教える。
1-10節の規律は、各自の位置に応じて守るべき規律を提示する。
年配の男(2節)、年配の女の人(3-5節)、若い人(6節)、奴隷(9-10節)の規律である。
そしてその中間7節に指導者の模範としてテトスが守るべき規律も言及する。
①年配の男には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。
②年配の女の人には、神に仕えている者にふさわしくふるまい、人を中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。そうすれば、彼女たちは若い女の人に、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、善良で、自分の夫に従順であるように諭すことができる。
③若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように。
④奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、盗んだりせず、いつも善良で信頼できることを示すように。
⑤テトスには、良いわざの模範となること。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保つこと、非難する余地がない健全なことばを用いること。

福音と一致した生き方をするべき理由
① 聖徒の場合
神のことばが悪く言われることのないようにするため。
救い主である神の教えを飾るようになるため。
② 指導者の場合
敵対する者が、何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになる。

テトスへの手紙は完全な信仰の結果として「キリスト教的市民像」を提示する。
これはテトスへの手紙の背景となるクレタ人の本性の欲。つまり、肉体と心の望むことに従って放蕩な生活をしているゆえにさらに強調される。
パウロはテトスに聖徒たちに福音に一致した生き方を教えるように命じる。

教えの内容は、個人的、家庭的、そして社会的に「健全な生活」を生きることである。
2-9節に出てくるリストは、当時の市民像と一致するものがあり(自制、品位、など)、クリスチャンとして追加するものがある(信仰、愛、忍耐など)。
教会外の人々もなりには健全な生活を過ごそうとする。
しかし、これはあくまで信仰とは無関係で、健全に生きる人生によって様々な有益があるからだ。
何よりも、これらの人生は人の教育の結果として現れ、それを通して人々の尊敬を受けるようになる。

しかし信者が健全な生活をすることは、これとはまったく異なる理由がある。
それは、神のことばが悪く言われることのないようにするためであり、進んで私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためであった。

女性と奴隷が自分の夫と自分の主人の権威に服従することは御子と天の父の関係に基づく。
御子は父に服従することによって父の愛の中にとどまった。(ヨハネ14:31・15:10)
父は従順な御子にご自分の本質を与える愛をなさった(ヨハネ1:18・17:24)
従って、従順は愛の動機とし権威者は愛によって答えるべきである。
この時、御子が父の中にとどまり、一つになったように服従する者と権威者は一つになる。

一方、パウロはテトスに霊的な指導者としての模範になることを命じる。
人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いするべきである。そうすれば、敵対する者も、何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになる。
貞潔で品位を保つ教えは外的な態度ではなく、その内容話す。
これは純粋な福音を伝えることと、王の命令として福音を品位があるように伝えることを言う。
進んで、非難する余地がない健全なことばを使い、善いことに努める。

福音と命の真理は「キリスト教的な市民像」として実を結ぶ。
このような人生は、偽りと貪欲、太満と野蛮が溢れているこの時代にさらに要求される。
しかし、福音に無知で、永遠の命に住んでいない者は、やむを得なく悪い性質に従う。
彼らによって、神様のみことばが非難され、神様の教訓が嘲笑される。

今日、神を否定する無神論が広がっている。
特に、世界の教育は人間の精神に基づいた無神論に基づいている。
そのため、人々は教養を築き、健全な生活を追求するようになった。
さらに、技術文明の成果は人間の精神の偉大な勝利を叫んでいる。
このように、無神論が主流となるこの時代、どのように神に対する信仰が力を得て説得力を得るだろうか。

ところがもって恐ろしいことは、この無神論は教会の外だけではなく、教会の中にもあるという事実だ。
クレタのクリスチャンのように、彼らは神を知っていると公言するが、心で否認し、行いでも否認する者が少なくない。(1:10)。
いくらことばで知っていると言っても、心と行いで否認しているなら、それは神を否認することである。
愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。(詩篇 14:1)

20世紀の代表的な神学者の一人、エミール・ブルンナーは、現代時代の特徴である無神論思想(非キリスト教化)は、多くのクリスチャンが信仰に不順した結果である」と述べた。(日本語のでは訳が異なる可能性もある)
また著名なカトリック史家「クリストファー・ドーソン」は、「世俗主義(無神論)に最も大きく寄与した者たちはやはり不順なクリスチャン」と批判した。(日本語のでは訳が異なる可能性もある)
キリスト教的市民像が欠けているクリスチャンは、彼らの指摘を弁明することはできない。なぜなら、行いで神様を否定する不充分な信仰人たちは、世の中で神様をさらに不信にさせるからだ。
「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。(ローマ人への手紙 2:24)

クリスチャンは地の塩であり、世の光として存在する。
不順なクリスチャンは、世の闇を助長し、腐敗していく世界をさらに腐らせる。
彼らは救いの仲介者ではなく、世が神を今よりさらに不信にさせる。
無神論者、世俗主義者たちは、彼ら自身ではなく、不順なクリスチャンによっても作られるというのが厳しい現実である。

私の黙想
私は心が弱く、いつも人に非難されることを恐れている。
それで、神様が私に与えられた悟りや恵みがあってもそれをまっすぐに伝えず、有名な
牧師の説教の流れに無理ありに入れて福音を伝えようとしていた。
もちろん他の先生の説教が悪いと言っていることではない。皆、それぞれが主にあって素晴らしい説教である。

外国人である私にとっては、日本の先生方々の説教を聞きながら、聖書の知識だけではなく、教会で使われている日本語も学べるので本当に役に立つ。

しかし、問題は、ある先生の説教は非難されるところもなく、いつでも安全そうに見えた。そしてそのように聞こえた。それで日本語の勉強を言い訳に、その先生の説教を御言葉より愛していたことだ。
あまりにも聞いてその先生の体験がまるで自分の体験のように錯覚した時もあった。

最近、いろんな方々の支えにより、YouTube配信を始めった。
正直に恐れている、声も良くない、日本語の発音も正確ではない。そればかりではなく内容面ではどうだろう。悩んでいる。
しかし、A先生の言葉か私の心に勇気となって響く、先生!情熱をもって与えられた福音をまっすぐに伝えればそんなことは問題ではありません。と。

あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。

黙想の祈り
ああ、神様。
こんな私を、福音を伝える者として許してくださりありがとうございます。
しかし、私は、人の非難を恐れて、不完全な知識で、福音を説明しようとしていました。
純潔な福音を伝えるよりは何かを入れ混ぜていのちの福音を薄めて伝えていました。

純潔は福音、王の命令として伝えるようにしてください。
人の非難を恐れず、ただ主の御前で伝えるようにしてください。

福音と生活が一致した人生になりますように導いてください。

イエス様の御名によってお祈りします。 アーメン。