テトスへの手紙 2:11-15

2022年2月23日

聖書箇所

[テトスへの手紙 2:11-15]
11実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。
12その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
13祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。
14キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。
15あなたは、これらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。

本文の注解
2:11‐14はキリスト教的な市民に対する神の救いの根拠を提供している。
クリスチャンは救いの恵みが与えられた結果として、慎み深く、正しく、敬虔に生活をしなければならない。
ここで慎み深く、正しく、敬虔とは勇気とともに古代ギリシャの重要な徳目に属する。
ギリシャは人間の精神に基づいた徳目を強調しるが、クリスチャンの徳目は救いの恵みに基づいている。

救いの恵みはすべての人に与えられた神の恵みである。
この恵みはキリストにあって私たちに与えられた恵みである。
今は私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって与えられる。

今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。(第二テモテへの手紙 1:10)
11節の救いをもたらす神の恵みが現れたとⅡテモテ1:10の救い主キリスト・イエスの現れは並行の節である。(φανερόω)
救い主キリスト・イエスの現れによって救いの恵みが現れた。
この恵みは永遠の昔からキリストにあって私たちに約束された恵みであって、救い主キリスト・イエスにあって永遠のいのちである。(テトス1:2・Ⅱテモテ1:1・Ⅰヨハネ2:25)

エペソで永遠のいのちの約束はすべての人々つまり、異邦人にも与えられた。

それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。(エペソ人への手紙 3:6)

神様の恵みは信じる者をキリスト的な市民像にふさわしい生活をするように教える。つまり、不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活するように教える。

しかし、キリスト教的な市民像としての人生は一時的である。
信仰の究極の内容は祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むことである。
キリストの再臨を待ち望むことは大いなる神を待ち望むことである。(13節)
その日に、キリストは国を父なる神に捧げ、神として万物の主になるようになさる。

[コリント人への手紙 第一 15:24―28] 24それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。25すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。26最後の敵として滅ぼされるのは、死です。27「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。28そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

14節でもう一度、キリスト教的な市民像を根拠にして救いの恵みを提示する。
キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。(14節)

ご自分のものとしてという表現は旧約で選民であるイスラエルを思い出させる。
神様がイスラエルの民を救われた目的は、「ご自分の民」となさるためである。
神はイスラエルを出エジプトさせた後、シナの山で彼らと契約を結ばれた。
救われたイスラエルがみことばを聞いて従うと(シェマー)、神様の民になる。
従って彼らが「シェマー」(聞いて従う)すれば、彼らは神の宝となる。祭司の王国、聖なる国民となる。

6それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。7わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。(出エジプト記 6:6,7)

5今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」(出エジプト記 19:5,6)

旧約時代の契約民イスラエルは、新約時代の救われた者を例示している。
新約時代に救われたものは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民である。
9しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。10あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(第Ⅰペテロの手紙 2:9,10)

テトスへの手紙2:14の良いわざとⅡテモテへの手紙3;17の良い働きとはテトスへの手紙2:14の良いわざとⅡテモテへの手紙3;17の良い働きとは【神の栄誉】である。
キリストが私たちのためにご自分を献げられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるためであった。
キリストが私たちのためにご自分を献げられたのは、良いわざ(良い働き)つまり、【神の栄誉】を表すことに熱心にさせるためである。
これは御言葉の教えによる養育、そしてキリストの血によってきよくなることによって可能となる。

新約時代の契約の民は、彼らのために代わりにご自分を献げられたキリストに借金がある。
彼らは御言葉の教えに養育され、良いわざ(良い働き)に努めなければならない借金を負った。
ここでの良いわざ(良い働き)ことは、教会の中に限られたことではなく、世の中で証拠される「キリスト教的な市民像」である。
クリスチャンはキリストの血の恵みと神の御言葉により、世の中で慎み深く、正しく、敬虔に生活しなければならない。
私たちをすべての不法から贖い出した神の恵みは、キリストにあって私たちの良いわざ(良い働き)によって世に現れる。

私の黙想
私たち、クリスチャンは、教会に留まらず、世に出て行かなければならない。
つまり、教会のなかでクリスチャンとしての信仰生活だけではなく、自分が属している教会以外の生活でもクリスチャンとして生活をしなければならないのだ。

昔、聞いた話しだが、ある教会で、礼拝が行われていた。そして、その教会の牧師が説教をしようとしていたときに、いきなり牧師の婦人が布団を持ってきてこういった「私は今日からここで生活します」と。参加していた信徒たちが、戸惑いながら言った「奥さん!礼拝の最中に何をしているのですか。」と。すると牧師の婦人は言った「ここでの夫が一番やさしいです。」と。
先日、娘と買い物するために出かけた。車のなかで娘といろんな話をする最中に娘が「私のなかでのパパのイメージはやさしいけども、、、、以下省略」

私たちは世の中ではどのように生活しているのかはともかく、教会で熱心に奉仕するとよい行いする信徒、あるいは信仰が丈夫な信徒と呼ばれるがちだが、世の中でもクリスチャンとして熱心に生活しなければならないのだ。
あなたは、これらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい。

15それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、16いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。[ピリピ人への手紙 2:15,16]

黙想の祈り
ああ、神様。
私は、信者たちが世の中でどのように生きているのかより、教会に忠実であれば、良い信者として評価していました。
いったい、私は誰のために牧会をし、何のために福音を伝えていたでしょうか。
救いの恵みが何なのかとしっかりと伝われてないのにどのように実が結ばれるでしょうか。
これからの信仰生活が片方によらないように導いてください。
イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。