テトスへの手紙 3:1-15

2022年2月26日

聖書箇所

[テトスへの手紙 3:1-15]
1あなたは人々に注意を与えて、その人々が、支配者たちと権威者たちに服し、従い、すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。
2また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。
3私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。
4しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、
5神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。
6神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
7それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。
8このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。
9一方、愚かな議論、系図、争い、律法についての論争は避けなさい。それらは無益で、むなしいものです。
10分派を作る者は、一、二度訓戒した後、除名しなさい。
11あなたも知っているとおり、このような人はゆがんでいて、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。
12私がアルテマスかティキコをあなたのもとに送ったら、あなたは何とかして、ニコポリスにいる私のところに来てください。私はそこで冬を過ごすことにしています。
13律法学者ゼナスとアポロが何も不足することがないように、その旅立ちをしっかりと支えてあげてください。
14私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。
15私と一緒にいる者たちがみな、あなたによろしくと言っています。信仰を同じくし、私たちを愛してくださっている人たちに、よろしく伝えてください。恵みがあなたがたすべてとともにありますように。

本文の注解
パウロはテトスをクレタに残し二つの仕事を任せる。
一つは指導者を立つたせること。そして、もう一つは異端者たちから教会を守る(保護)ことであった。
光が訪れると闇は退くように異端の思想から教会を守る(保護)のは、正しい教訓(福音)を伝えてそれにふさわしい生き方をするように教えることである。
テトスへの手紙2-3章は正しい教訓(福音)にふさわしい生き方としてキリスト教的市民像を教える。

当時のギリシャ社会のようにこの世の社会でも教育を通して健全な市民像を教える。
しかし、キリスト教の市民像は救いを与えてくださった神様の恵みによって教育を受ける(παιδεύωパイデウオー)ことによって与えられる。
つまり、神様の御言葉を通して義によって教育(教訓)することによって、良い働き(市民像の実践)ができる。
[テモテへの手紙 第二 3:16,17]16聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。17神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

3:1-2では権威者たちに対する服従を教える。
これは、ローマ13:1以下で特別な教訓の一部として詳細に取り上げられている。
地上のすべての権威は神によらない権威はなく、主イエス・キリストは地上の人々(権威者)の「主」となる。(ピリピ2:10)
したがって、クリスチャンは地上の権威者を超えて主イエス・キリストが支配していると信じて彼らに従うべきである。

ところが、クリスチャンは悪い権威者にも服従するのか。
ローマ人への手紙13章で服従を要求している権威者は善を行う人を称賛し益を与える神のしもべと呼ばれている(ローマ13:4)
従って、クリスチャンの服従は良い権威者に対することであって、悪い権威者に対しては、抵抗はするが、イエスキリストに倣って暴力なしにするべきである。

人間は政治的動物なのだから誰も政治的な立場を堅持し、それによって権威者を支持したり反対したりする。
従って、教会の中でも保守とか、進歩とかの立場が共存する。
しかし、これが極端に偏ったら、一方を盲目的に支持し、他の側を憎むことになる。
前者は、人を偶像に仕える罪に至り、後者は愛の戒めを破る罪に至る。
従って、クリスチャンは特定の政治家や政党に偏ってはならず、ただ自分の政治的立場は投票を通じて示すべきである。
3-7節は読者たちが、クリスチャンになる以前とクリスチャンになった以後の状態を説明している。
救われる以前の状態と救われた以後の状態を説明することは初代教会の説教の模型である。
「私たち」という言葉のなかには使徒パウロ自分も含まれている。
① 救われる以前の状態
愚かで、不従順で、迷っていた者、欲望と快楽の奴隷、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者。
② 救われた以後の状態
救いの根拠:神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき。
救いの方式:聖霊による再生と刷新の洗いをもって私たちを救った。
救いの現在:神様の恵みの結果として与えられた。
ⅰ主イエス・キリストによって、聖霊を、私たちに豊かに注いでくださった。
ⅱ聖霊が注がれたことによって、義と認められる。
ⅲ聖霊が注がれたことによって、永遠のいのちの望みを抱く相続人となった。

救いの根拠は神様の愛にある。
神様は永遠の昔、御子にいのちを持たせた(ヨハネ5:26)そのいのちを私たちに約束された。(テトス1:2)
このために人を創造され、永遠の昔から約束された御子のいのちによって生まれる者である。
つまり、アダムは永遠の昔から約束された御子のいのちの存在ではなく、造られた肉のいのちである。(創世記2:7・Ⅰコリント15:46)
アダムは来られるキリストのひな型であり(ローマ5:14)、キリストが来られるときに御子のいのちによって生まれる。
このために世界の基が据えられる前から御子は来られるように定められた。(Ⅰペテロ1:20)
キリストは最後のアダムとしていのちを与える御霊である。(Ⅰコリント15:45)

しかし、アダムは永遠のいのちが与えられる前に、御子が来られる前に罪を犯して神様から去っていた。
それにもかかわらず、神様は真実なお方で永遠のいのちに対する約束を守る。
ただし、今は罪の問題を解決しなければならないので、御子を遣わし御子を殺さなければならなかった。
神様はアダムが罪を犯した現場で、女の子孫と皮の衣として予表された御子を約束なさった。
アダムが罪を犯し、すべての人が彼と一緒に罪を犯したのにもかかわらず、神は御子を殺してまで永遠のいのちを与えるという約束を守られた。
これが神の憐れみであり、人に対する愛の実際である。

救いとは罪が赦され、永遠の昔から約束されたいのちを受けることである。
これは、聖霊による再生と刷新の洗いによるのである。

救いの現在の状態も神様の恵みに根拠を置く。
主イエス・キリストによって、聖霊を、私たちに豊かに注がれる。それによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となる。

8-11節は今までの教訓をもう一度、繰り返して強調
している。
パウロはこのことばは真実だからテトスに確信をもって語るように願っている。神を信じるようになった人は、良いわざに励むことを心がけること、それが良いことであり、人々に有益である。(8節)
愚かな議論、系図、争い、律法についての論争は避けるようになぜなら、それらは無益で、むなしいものだからである。(9節)
それにもかかわらず、分派を作る者は、一、二度訓戒するそれでも聞かないなら、除名すること。(10節)
そのような人はゆがんでいて、自分で悪いと知りながら罪を犯している(11節)

12-15節はこの手紙の最後ところで、個人的な願いと挨拶である。

パウロの手紙には、多くのところで救われる前と救われた後の状態が宣言されてある。
エペソ人への手紙2:1-6・11-13、ローマ人への手紙6:17-18・23、コロサイ人への手紙3:1-11、第一コリント人への手紙6:9-11など。
その核心はこれだ!
救われる前は、御子による永遠のいのちがない地に属していた。
救われた後は、御子の永遠のいのちが実際となって永遠のいのちの望みを抱く相続人となった。

キリスト教の救いは聖書を通してのみ明らかにされる。
しかし、キリスト教の歴史の現実は、聖書と相反する人間の教理や教訓として位置づけられてきた。
そういうことによって間違った救いの内容を当然と思うようになり、そこに反論することは非常に難しくなってきた。
御言葉から離れた救いの内容は、虚しいことで破局に至る。

これはシロアリが木で建てられた家を破壊する過程に例えされる。
まず、誰も気づかないうちに家の柱のなかを食いはじめる。
そうして柱の中が完全に空になると、家を支える力がなくなり、家が完全に崩れるようになる。
そのように御言葉によって明らかにされたキリストの福音から離れると、キリスト教は不可避に非キリスト教と反キリスト教に転落してしまう。
これがキリスト教の歴史が生々しく見せる惨めな結果である。

私の黙想
私は長い期間、福音の実際を知っていると思っていた。
簡単に言うとイエス様を信じれば誰でも天国に行けるよと伝えていた。
間違ったことではない。
そして、福音を伝えるものとして正しく生きるために、自我を殺すことにいのちをかけた。しかし、そうすればするほど悲惨な自分の姿に失望するばかりだった。

福音の実際を知らずに頑張りすぎて、信仰生活に疲れている信徒たちに笑顔で「そこまで頑張らなくてもいいですよ。神様はやさしいお方ですから」と言いましたがその都度心の中ではそういう自分はどうだという自問が絶えなかった。

全てが面倒だった。絶望的だった。このままでは人の前に立つことはできない。どうする。悩んだ。

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れた。神は、私が行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私を救ってくださったのだ。神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私に豊かに注いでくださったのだ。
悟った瞬間、恥ずかしさと同時に喜びが溢れてきた。

資格のない者、足らない者に永遠のいのちを伝えるように、極めて小さい者、無能な者を通して働かれる主は偉大である。

このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。

黙想の祈り

ああ、神様。
私は救いの実際に対して無知でした。分かっていると思って、頑張って伝えましたが、
実は知らなかったのです。
なぜなら、真の福音が伝われないところには愚かな議論、系図、争い、律法についての論争などの無益でむなしいものが、そして、分派を作る者が起こるからです。

主よ!申し訳ございません。

これからは一人の息子さえも惜しまず施してくださったその大きな憐みの恵みのなかで、救い主イエス・キリストによって、私に豊かに注いでくださる聖霊様のなかでキリストにあって実際となったそのいのちの福音を伝えるように聖霊様と豊かな交わりができますように導いてください。

イエス様の御名によってお祈りいたします。 アーメン。