苦難・復活黙想2022/03/12

聖書箇所

[マルコの福音書 14:1-11]
1過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。
2彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。
3さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
4すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
5この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
6すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。
7貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。
8彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
9まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
10さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。
11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。

本文の注解
マルコの福音書1:1節には「神の子、イエスキリストの福音のはじめ」とあります。
つまり、イエスキリストご自身が福音そのものであることをあらわしています。

神の子がこの地上に来られた目的は仕えられるためではなくつかえるために、多くの人のための贖いの代価として、ご自分のいのちを与えるために来られました。(マルコ10:45)

イエス様はピリポ・カイザリアからエルサレムに上る道で3回イエス様が受ける受難の予告を話されました。
人の子は長老たち、祭司長たち、律法学者たちに苦しみを受け殺される。しかし三日後によみがえられ、救い主となる。
それ故、イエスキリストの死は信じる人々を神様の子とするための契約の死である。(14:22-24)

しかし、弟子たちはイエス様のこのことばが理解できなくて尋ねるさえも恐れていた。(マルコ9:32)
弟子たちはイエス様と同行はしているが、思いはイエス様と異なっていた。

弟子たちはイエス様とともに食べたり飲んだりしていても心はイエス様とともにない。
[箴言 23:7]彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに「食え、飲め」と言っても、その心はあなたとともにない。
しかし、イエス様は相変わらず彼らとともにエルサレムに向かいます。

エルサレムに入場したイエス様は宮を清めました。
そして宗教指導者たちと論争をしますが、イエス様は彼らを制圧する。
論争が終わると13章で宮(建物)が崩れることを予言しながら再臨を約束する。

一方、祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。(1節)
彼らは、過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていたので「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。(2節)
イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家にて食事をしておられた(3節)
そのとき、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。(3節)

当時の伝統によると純粋で非常に高価なナルド油の入った壺は母が娘に与える宝のようなものである。
この壺は女にとって生活のすべてであり、人生のすべてであった。
また、お客さんが来たときとか、祝いのときに一番大切なお客さんに注ぐ慣習もあった。

このとき注がれた人は「主」と称される。
この女性は静かに香油をイエス様に注ぎながらイエスキリストが主であることをあらわしていた。
ヨハネの福音書12:3節にはこの女性のことをマリアと記録している。

イエス様とともにいた何人かの者が憤慨して彼女を叱責する「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。」と。
彼らは成人男性の約1年分の収入に当たる三百デナリの香油を無駄にすることを見て憤慨する。
この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」(5節)
ヨハネの福音書12:4節にはこの人のことをイスカリオテのユダと記録している。

良いこと
イエス様は香油を注いだマリアと彼女に憤慨するイスカリオテのユダの間でおっしゃる。
6節、すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。

イエス様は人の目には無駄に見える行動を良いことだと規定する。

彼女の行動は人の道徳的の基準から見ると無駄なことであった。
しかし、神様の霊的の基準からは良いこととなる。
このように神様の基準の善悪と世の基準の善悪は時と場合によっては確実に異なる場合がある。

貧しい人々は、いつも一緒にいる。いつでも彼らに良いことをしてあげられる。
しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいられない。
死が迫っているイエスキリストのために香油を注ぐことは今やるべき最後の機会であった。
彼女は、当然やるべきことをやっている。
彼女が香油をイエス様のからだに注いだのは埋葬に備えて、前もって香油を塗ったのである。

この人がしたこと
イエス様は彼女行動に対して良いことでで終わらない。
9節、まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

彼女のしたことは、福音が伝えられる所ところで記念としてかたられるようになる。

そして、イスカリオテのユダも自分のやるべきことをやる。
10さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。

祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していたが、その方法が弟子から出る。

私たちにも、それぞれ高価なものが入っている壺がある。
一生懸命に働いて稼いだお金。一生懸命に働いて守ってきたお店。
一生懸命に働いて育てた子どもたち。名誉・車・家
こういうものは地上の誇りであり、人の人生はそれを入れて出す壺のようだ。

しかし、私たちの人生には終わりがある。時間とともになくなる。
すべての人は時間のなかに存在し、時間とともに去る。
若さも財産も健康も名誉も時間はじわじわと飲み込んで行く。

その中で、残った私の人生の壺をどこにどのようの使うべきなのか。

彼女はイエスキリストに死に自分のすべてをかけた。
世の人から見ると彼女のしたことは無駄なことだった。
そしてある人は憤慨し彼女を叱責した。
しかし、その彼女を守ってくれたのは彼女の主なるイエスキリストだけだった。

女性と弟子たち、マリアとイスカリオテのユタは同時に生きていった。
世の基準に従って一生懸命に生きている人はイスカリオテのユダの目線にものを見る。
彼らの目にはイエスキリストの死のために人生をかける人は愚かである。
なぜなのか。福音は隠れているからである。

ああ、イエスの死に人生を捧げる者は、福音のために人生を捧げる者である。
彼女は黙々と自分の人生を捧げる。そしてその彼女を知っているのは、彼女のために死ぬキリストだけである。

だが、イスカリオテのユダの道は滅亡の道だ。
キリストを排除したまま人生を生きる者は滅びる
一方、キリストの死のために自分の人生を捧げる者は永遠だ。
もちろん、世の目には愚かに見える。
しかし、彼女がしたことは福音とともに記念となる。

私の黙想
私の中にはマリアとイスカリオテのユダが共存している。
しかし、ほぼイスカリオテのユダの目線の基準にして良いことをして来た。

主にしたがって主とともに食べたり飲んだりはしていたが、わたしの心は主と同じではなかった。
イスカリオテのユダのように合理的に世界的に人間的に考えて計算しそれに従った。それが正義であると思っていた。

妻の何かの行動が気に入らず、妻に腹を立て叱責した。
そして、家から出て教会で一晩を過ごした。
私のなかにイスカリオテのユダの基準が鋭く立っていた。今日の内容と少し異なるかもしれないが、イエス様のおっしゃる「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。」のが心に響く。

四旬節。
自分の道徳的な基準より主がなにを良いことだとおっしゃるのかを聞く。
主の前に膝をまずく。

黙想の祈り
ああ、神様。
世の道徳的な基準から考えると彼女はそれを売って貧しい人たちに与えることが良いことです。
それは、当然のことです。
したがって彼女は叱責されても仕方がないのです。

しかし主はそれが良いことだとおっしゃいました。

マリアのように生きるといいながらイスカリオテのユダのように生きているこの私を赦し導いてください。

イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。