苦難・復活黙想2022/03/18

聖書箇所
[イザヤ書 53:1―6]
1私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。2彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。3彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
本文の注解
エルサレムは崩れ、民たちはバビロンに捕虜となった。
イスラエルの民は状況に絶望し、神様に対しても絶望していた。
旧約時代、神様に背く民に対する神様の裁きは厳重で完全である。
神様に対する信仰は絶対な信仰である。それは究極的な関心の対象は神様ご自身であること。他のものに関心を持ってはならない。

申命記6;5あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
神様に対する究極的な関心のみ神様が受ける信仰である。

人々には各自、関心事がある。
それらのものは究極的な関心ではなく、一時的で予備的な関心である。
偶像崇拝とは一時的で予備的な関心事を究極的な関心事に変えることである。

現実的に私たちは、子どもたち、仕事、成功、名誉、お金、豊かな人生などに無関心することはできない。
しかし、これらのものが究極的な関心になると私たちはこれらのものに支配される。
なぜなら、究極的な関心は常に私たちの神となろうとするからである。
時には教会のご奉仕や捧げものなどもそれ自体が究極的な関心になるとそれが偶像崇拝となる。
究極的な関心はかみさまのみである。

イスラエルの民は神様が選んだ選民であった。神様の御言葉を持ち神様に礼拝した。
しかし、人間の罪悪性と限界により神様に対する礼拝は偶像崇拝となってしまった。

彼らは神様を信じながらも自分の関心事、世が求めるものに究極的な関心を持っていた。
彼らの偶像崇拝は異教徒の礼拝をしたことよりは、神の神殿で神様ではない、他のものに究極的な関心を持っていたことである。

真の信仰は神様を仕えながら、同時に偶像崇拝することによって脅かされる。
つまり、神様を信じながら自分の関心事に縛られることになる。

マタイの福音書 6:24だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

罪人だから罪を犯すことではない。サタンに屈するから罪を犯す。

実はイスラエルの民は自分たちのなりには神様を仕えた。
しかし神様ご自身ではなく、神様が与えられた「その何か」を究極的な関心とした。
善の行い、選民意識などを神様ご自身より大事にしていた。
それで神様は預言者たちを遣わして「神様ご自身」に戻ってくるように絶えずに警告していた。
しかし民たちは最後まで戻ってくることはなかった。

やがって、神様はイスラエルの民を裁かれた。
バビロンによりエルサレムの神殿が陥落され、民たちはバビロンの捕虜となった。
捕虜となった民たちは絶望していた。自分たちの力では自分たちを救うことはできないからだ。
そのとき、預言者イザヤは喜びの知らせを伝える。

[イザヤ書 52:9]エルサレムの廃墟よ、ともに大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ。

自分たちの力では自分たちを救うことはできない彼らに神様のしもべを遣わす。
[イザヤ書 52:13]「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。

しかし、人々の目では彼(しもべ)を知ることはできない。
私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。(1節)

しもべは人々に蔑まわれる。。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。
彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。

神のようになろうとする堕落の本姓を持つ人間にとって恐ろしい病気は宗教の中毒病である。
この病気にかかると神様の御名を使い人々が驚く行動を起こし自分の位を高めようとする。
神様の御力を利用して信仰的に巨人となろうとする宗教的な欲望にとらえる。
信仰通して偉大になりたがる欲望。

真のクリスチャンは偉大になろうとする思いや偶像から自由になった人である。

神様が絶望のなかにいる民たちを慰め、贖われるために遣わされた、しもべの姿はどうだろか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
誰がこのような人に注目するだろうか。このように人を救い主として受け入れることが恥ずかしいことではないのか。
人の心を一気に引っ張るぐらいにカリスマがないとだめではないのか。

誰も彼に注目しなかった。大切にしてなかった。
しかし、聖書はこのように言う。

[マタイの福音書 13:16,17] 16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。17まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。

人の理性と経験では彼をみることはできない。
神様が知恵と啓示の霊を与えてくださるときに心の目ではっきりみることができる(エペソ1:17-18)
私たちは神様が見せてくださるときに隠れている救いの福音を見ることができる。

そのしもべはまことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。( 4節)
それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(5節)
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。(6節)

イザヤは神の子がこの地上に来られ受けるべき苦しみと信じるすべての人を救われることに対して前もって預言している。
[マタイの福音書 1:21]マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

私の黙想
主が人々に蔑まれ、人々からのけ者にされたのは私の罪のためであった。
神様が見せてくださるときに私が見えて主が見える。
私は自分の咎と背きの罪のために刺され砕かれて死ぬべき存在である。
しかし、主はこんな私のために殴られ、釘つけられ、刺された。
私を生かせるために死なれた主が見える。

私が立つべきその裁きのところに主が代わりに立っておられる。

今、私が平安のなかに暮らしているのは神様が私たちすべての者の咎を彼に負わせたからである。

6節、私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

最近、youtubeをはじめた。最初は恥ずかしくて躊躇していたが、いつの間にか「いいね!」に敏感になっている自分の姿が見えてきた。特に娘のクラスで話題になっていることが分かってもっとそうなった感じがした。

神様の御名を利用して人気者になりたい欲望が湧いてくる
四旬節、十字架に偉大になりたい、人気者になりたい欲望を釘付ける。
Youtubeをはじめた初心を忘れないように祈る。

黙想の祈り
ああ、、神様!

私の究極的な関心はどこにあるでしょうか。
町を走るときに良い建物が見えるとあそこが教会になればな。。として今与えられてある建物に対して感謝がだんだん薄くなってきました。

神様から与えられる「そのなにか」ではなく、自分の背きと咎によりしぬべき私を救ってくださった主が究極的な関心となりますように私を導いてください。

イエス様のみ名によってお祈りいたします。  アーメン。