苦難・復活黙想2022/04/02

聖書箇所

[第一ペテロの手紙 4:1ー8]
1キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。
2それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。
3あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。
4異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、
5彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。
6このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。
7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

本文の注解
この手紙は小アジア教会の信徒たちを対象に書かれた。(1:1)
当時の信徒たちは苦難と迫害のなかにいた。
使徒ペテロは彼らを慰めながらキリストの受けた苦難を覚える。
キリストは義人である。しかし不義の者の代わりに苦難を受けた。
それによって信じる者を神様に導かれる。
したがってキリストの受けた苦みに倣って神様のみこころであるなら悪を行って苦しみを受けるより、善を行なって苦しみを受けるほうがよいのである(3:17)

キリストは苦しみを受けた後、復活し天に上り神の右におられる。
御使いたちも、もろもろの権威と権力も、キリストに服従する(3:22)
したがって、信徒たちも同じ心構えで自分自身を武装するべきである。なぜなら、肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているからである。(1節)

勿論、肉において苦しみ、つまり苦行そのものが罪を切らせるのではない。
私たちが肉において苦しみを受けることは私たちを罪なきものとしてくださったキリストの苦みに連合することである。
これは、私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられ、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためである。(ローマ人への手紙6:6)

その結果、地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになる(2節)
人間の欲望とは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などである。
このような生き方は、過ぎ去った時で十分である。

ところが、異邦人たちは、一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷する。
クリスチャンは放蕩に走っている世の人々の中から救われた。
したがって彼らと同じ道を走らないことによって非難を受ける。
彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、事実を告白しなければならない。(5節)

クリスチャンも世の人々のように肉において死ぬ。
これはまだ死の勢力が働いているからである。
この死の勢力は主が再び来られるときに完全に滅びる。
最後の敵として滅ぼされるのは、死です。(第一コリント人への手紙15:26)
したがって、肉においては信じない人々と同じく死ぬが、福音を聞いたので霊的に生きる。
そして、主が再臨なさるとき輝く姿に復活する。

今日、クリスチャンとして生きると苦しみが伴う。
しかし、世にしたがって生きると苦しみではなく、肉の快楽に従う。そして死をむかえる。

ところで、今苦しみを受けながら忍耐しながら生きるべき理由は何なのか。
それは、必ず生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方の前に立つ時が来るからである。
外面的なクリスチャンやノンクリスチャンはともに裁きを受ける。
しかし、福音を受け入れ苦しみのある人生のなかでもキリストに従う人は神様の家族となる特権が与えられる。

このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。(6節)

万物の終わりが近づいた。
ですから、祈りのために、心を整え身を慎むべきである。(7節)

古い人の誘惑は実際で強烈である。
したがって、クリスチャンは以前神様を知らなかったときの生き方に戻らないように聖霊様に導きに委ねながら生かなければならないのである。自分の力では古い人の誘惑に勝つことはできない。

それでは、どのようにいきるべきなのか。
8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
箴言10:12にも憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう。と書いてある。
「何よりもまず」これは、もっとも優先すべきことである。
しかし、ここで愛は多くの罪をおおうとはすべての罪に対して沈黙する、あるいはなかったことにする。意味ではない。
覆うとはギリシャ語では、神様に捧げものを捧げるときにそのささげものからながれる血がその人の罪をおおうような意味をもっている。
すなわち、おおうものがそのままあるのではなく、キリストの血潮により私たちが新しく生まれ変わったように咎のある人もそのようになれるように助けることの意味である。

私の黙想
一人暮らしのある方の生活を手伝っている。
一人ではあまり動くことができないというので、一緒に病院にも買い物も行った。そして、たまには話の相手にもなった。

その方には奥さんも、成人の子どももいる。
みな遠くに住んでいる。
だから私が家族の代わりに毎日ではないけれどその方を手伝おうと素直に思っていた。それが、教会がまた私がやるべきことだと思っていた。
ところが、その方が一人暮らしをしているのが、ただ距離的な問題だけではなく、家族のなかにいろんな問題が絡まってあることが分かった。そしてあるときからその方と家族の間で振り回されているような気がした。そのせいか。あまり感謝の気持ちももってないようにも感じた。

家族の争いに入りたくなかった。それでしばらく手伝うことをやめようと思っていた。心がもやもやする。

今は四旬節だ。どのように過ごすべきかと考える。神様はどのようなことを望んでおられるのか。
断食なのか。決めた分量の聖書読むことなのか。朝晩祈ることなのか。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。

黙想の祈り
ああ、神様。
キリストが受けた肉においての苦しみを黙想するとは言いながら、心の中では不平を言っていました。

古い人の誘惑は強烈で私をまた支配しようとします。
古い人の生き方は過ぎ去った時で十分です。

神様。
キリストの愛の綱で私を引いてください。
人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようにしてください。
イエス様のみ名によってお祈りいたします。 アーメン。