苦難・復活黙想2022/04/08

聖書箇所

[ルカの福音書23:26-43]
26彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。
27民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。
28イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。
29なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。
30そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます。
31生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。」
32ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。
33「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
35民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
36兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
38「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

本文の注解
ピラトは群衆たちの要求しているとおりにイエスの死刑を決める。
それは群衆たち思うとおりになったのだが、実は神様の定めた計画のとおりであった。(使徒2:23)
兵士たちはイエスを死刑するため引いて行く途中、田舎から出てきたシモンというクレネ人を捕まえ、十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。

十字架の刑は、罪を犯した死刑囚が、自分が駆けつけて死ぬ十字架を負って行くのが慣例であった。
しかし、一晩中、何度も裁判所に連れられ質問され、むちに打たれたイエスは十字架の重さに耐えなかった。
それで兵士たちは強制的にシモン捕まえてイエスを助けるようにした。

一方、多くの人がイエスの後についてきていた。その中には女性たちも多かった。
その女性たちは泣き悲しんでいた。
この女性たちはガリラヤからついて来たのではなく、エルサレムの女性たち(娘たち)であった。
イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。(28節)
なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。(29節)

イエスは彼女らの泣く姿を見ながらもう一度、エルサレムの滅亡を預言する。
エルサレムが滅びる日は必ず来る。人々は子どもたちが苦しみ姿を見ながら子どもがいない方が良かったと言うようになる。
普通は子がいないことが寂しいことで、悲しいことであるはずが、しかし、その日には子がいない方が良いこととなる。
寂しいこと悲しいことが良いこととなる。つまり常識がひっくり返される恐ろしい状況が来ることを表している。
そのとき、人々が思う良いこと(祝福)と悲しいこと(呪い)ひっくり返される。
今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。(ルカ6:21)

そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始める。(30節)

そのときの災いの厳しさは生木と枯れ木の例えで表す。
生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。(31節)
生木より枯れ木の方が燃えやすい。
ここでの生木は罪がないイエス様のご自身を指し、枯れ木は罪のあるエルサレムを指している。
神様が罪のないイエスも惜しまなかったなら、罪のあるエルサレムが受ける災難はどれぐらい恐ろしいものであるというのか。

一方、ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。(32節)
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。(33節)

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(34節)
これはただ兵士たちだけではなく、そこにいたすべての人々に向かって言ったことである。

イエスキリストはすべての人類のために贖いの代価となった。
[使徒の働き 2:36]ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
[ローマ人への手紙 4:25]主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。
[第一テモテへの手紙 2:6]キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。

兵士たちはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
しかし、これは詩篇に記されている御言葉を成就するためであった。
彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。(詩篇22篇18節)

十字架につけられたイエスは三度侮辱される。
最初は、議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」(35節)
しかし、イエスの死は義人として不義なものたちの代わりの死である。
イエスが不義な私たちのために死なれたことは私たちを神様の御前に導くためであった。
[第一ペテロの手紙 3:18]キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。
[第二コリント人への手紙 5:21]神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

次に侮辱されたのは、兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。(36―37節)
彼らがこのように侮辱したのはイエスの頭の上に「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあったからである。(38節)

世の王は自分を救う王である。
しかし、神の国から来られた王は自分のいのちを捨てる。
キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てて人の姿で来られた。(ピリピ2:6)
そして、十字架の死にまで従われた。(ピリピ2:8)
[ヨハネの福音書 3:13―15]13だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

最後に侮辱されたのは、十字架にかけられていた犯罪人の一人である。
彼はイエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。(39節)
イエスが果たして、キリストであるならその能力を誇示して自分を救いまた、犯罪人である自分も救えということである。
これは、イエスキリストの正体性をこの地上の現実的な問題の解決に置こうとすることである。
この犯罪人が言うキリストはただこの地上での安定と幸せを補償する世的なキリスト像である。

ところが、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。(40節)
罪を犯しても神様の裁きを恐れない。何よりも、救われる最後のチャンスを自ら捨てている

おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」(41節)
そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42節)
自分は死んで当然だと認めている。しかし、彼が罰を受けたとしても、神様から罪を赦されることではない。
それで、この犯罪人は罪がないイエスに救いを求める。

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)。

私の黙想
私はイエスキリストを信じると言いながら、議員たちのようにまた兵士や最初の犯罪人のように、イエスキリストの死に対して無知であった。
ただイエスキリストの言葉を用いてこの世での安定な生活や繁栄を求めていた。
無知の実際は知らないのに知っていると思い込むことである。
聖書が言う福音を知らないと、聖書があらわしているイエスキリストを知らなおことである。
無知のなかで熱心にする信仰生活は盲信である。

苦難が、苦しみが、私を救うのではない。

私を救うのはイエスキリストである。

この四旬節。

もう一人の犯罪人の求めを黙想する。
40すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」42そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」

黙想の祈り
ああ、神様

この世での問題を解決する方法としてイエスキリストを求めました。
私のやりたいことのために主の力を求めていました。
そしてそのように教えていました。

死んで当然であった私を救いまた生かしてくださる
イエス様の贖いの恵みを忘れないように私を導いてください。

イエス様のみ名によってお祈りいたします。