ユダの手紙 1:1-7

2022年6月10日

聖書箇所

[ユダの手紙 1:1-7]
1イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。
2あわれみと平安と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
3愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
4それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。
5あなたがたはすべてのことをよく知っていますが、思い起こしてほしいのです。イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました。
6またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。
7その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。

本文の注解
このユダの手紙はヤコブの兄弟ユダが書いた手紙である。
福音書では、ユダをヤコブとともに、イエスの兄弟であると言及されている。
この手紙の宛先は父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された人々である(1節)
彼の手紙は一般的な挨拶のあわれみと平安と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように(2節)の言葉ではじまっている。

3-4節にこの手紙を書いた理由が書いてある。
ユダは本来、救いについて手紙を書こうとしていた。しかし、偽教師が教会の中に侵入したことを知って、他の主題に手紙を書いて送る。
つまり、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うように手紙を書いた(3節)。
それは、さばきにあうと昔から記されている、ある者たちが忍び込んできたからである。彼らは不敬虔な者たちで、神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり、主であるイエス・キリストを否定している。(4節)

キリストが聖徒たちにひとたび伝えられた信仰は自然に守られることではない。
信仰を崩そうとしている偽教師たちの実際を知り、彼らと戦うことによって守られる。
1節に「イエス・キリストによって守られている」とあるように、キリストが私たちの信仰を守ってくださるけども、私たちもやはり、彼らと戦うべきであることが明示されている。

続く5-25節は以下のように区別される。
5-7節は、彼らに対する警告を旧約聖書の例を通して勧告している。
8-16節は、旧約聖書の中で3人の例を挙げ、偽教師の行動を具体的に明らかにする。
17-23節は、偽教師に対抗して守らなければならない信仰の内容を勧める。
24-25節は、手紙を終える頌栄である。

5-7節は、旧約聖書に出て来る3つの例を通して聖徒の信仰を警告する。
① 荒野時代、信じなかった者たちを滅ぼされたこと。(5節)
② 自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちが受けるさばき。
③ 不自然な肉欲を追い求めたゆえに永遠の火の刑罰を受けたソドムやゴモラ。

最初の例は荒野の時代の滅亡である。
エジプトから救われたイスラエルの民は、みことばに従わず、荒野で滅びされた。
偽りの教師たちはみことばではなく、夢や幻などで信者たちを誘惑している。
もし、信者たちが偽りの教師に従うと、荒野で滅亡した世代と同じ姿となる。

第二の例は、自分のいるべき所を捨てたみ使いたちである。
旧約聖書では、み使いたちは彼らに特別に割り当てられた支配領域と住居を持っていた。
[ダニエル書 10:20,21] 20すると彼は言った。「私がなぜあなたのところに来たか、知っているか。今、私はペルシアの君と戦うために帰って行く。私が去ると、見よ、ギリシアの君がやって来る。21しかし、真理の書に記されていることを、あなたに知らせよう。私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者は、あなたがたの君ミカエルのほかにはいない。

自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちは、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められた。
この例は天に属しているものであっても、永遠のさばきを受けるという警告である。
信者は、キリストとともに天上に座らせた。
神はまた、キリストイエスにあって、私たちをよみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。(エペソ2:6)
そしてみ使いたちより優れている。
み使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために使わされているのではありませんか。(へブル1:14)
それでも、自分の所を守らずに堕落するとさばきをさけることはできない。

新約時代、救われた私たちが守るべき所はどこなのか。
そこは、「わたしがいるところ」つまり、御子イエスキリストがいらっしゃるところ、父の家である(ヨハネ14:2-3)
そこで、父が、御子に与えられた栄光を見、それを世にあらわす(ヨハネ17:23-24)

第三の例は、ソドムとゴモラの滅亡である。
聖書で創世記18:20~21:9に出て来るソドムとゴモラの滅亡は、神様の刑罰に対する例えとしてしばしば引用された。(エレミヤ23:14・エゼキエル16:48・マタイ10:15・ローマ9:29)
ソドムとゴモラに住んでいた人々は淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けた。
「不自然な肉欲を追い求め」とはソドムとゴモラで行った同性愛を指している。(創世記19:5)
これは自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちと同じで、永遠の火の刑罰を避けることはできない。

[ローマ人への手紙 1:26,27] 26こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。
ユダが警告した異端の思想は時代ことに教会にあらわれた。
すべての時代の教会はその時代にあらわれる風俗に脅かされる。
今日の教会は理性の産物である先端の科学と欲望の産物のマンモンに脅かされる。
そして、そこに染められた指導者たちは偽りの教師に転落し、信者たちの信仰を脅かす。
そのため、みことばに基づいた「聖なる中心点」がない信者は、津波に押されるように、偽りの教師たちに押されていく。
したがって、ユダ書は今日も同じように働き、私たちに信仰の善なる戦いを戦うように促す。
旧約時代の荒野で滅亡したイスラエルは、みことばに従わないことで契約を破った。
キリストが死によって成就した新しい契約は、神を知ることを要求する。
永遠の命は神を知ることであり、これは息子がいる所、父の家に住むものである。
み使いが自分のいるべき所を離れて裁きを受けるように、私たちも私たちがいなければならない場所である父の家を離れれば懲戒と審判が臨む。

私の黙想
真理は変わらない。そして、人の本質も変わらない。
最初の人、アダムが罪を犯した後、もたらせた人の本質。神様のようになりたいという罪悪な本質。その本質が私のなかにある。
この世では高い位に付くと免責特権というものがあるよう。
そして、まるで自分が神様かのように錯覚する牧会者たちも、罪に対して免責があるかのように振る舞う。
特に人々が自分の言葉に従って、何かを成就した牧会者はだまされやすい。
牧会をすることは栄光の使命あるが、自分の本質を知らずに、牧会をするのは恐ろしいことである。

最近、あるセミナー参加した。
参加したセミナーの目的は使徒たちには言えない牧会者たちの悩みを分かち合い互いに主の愛によって慰めることにあった。
そこである牧師が、今まで牧師や信徒たちに受けた傷(痛み)を証した。
その話を聞きながら私は、まるで自分の話をしているかのように聞こえた。
私も彼と似たような経験をして来た。

なぜなのか。実はそこは私がいるべき所ではなかったからである。

牧会者、指導者、代表という位が私をだましたのではないかと振り返る。
私は、またいつでも失敗する可能性が高い者だ。

ああ、私がいるべき所はどこなのか。息子がいらっしゃる父の家である。
人々が認めてくれ、成果が現れるそのような場所ではなく。
父の愛される子として、父の御言葉に従うことが、私がいるべき所だ。

今日の御言葉は鏡のように私のこころをあらわしている。

黙想の祈り
ああ、神様。
今まで、私がいるべき所はどこなのか知りませんでした。
み言葉ではなく、欲望に従って自分の所を探し続けました。
そのため、いくところところで、受けたのは傷ばかりでした。
理由はその所は私のいるべき所はなかったからです。
しかし、み言葉を通して私がいるべき所を悟らせて下さいました。
私がいるべき所。そこは御子がいらっしゃる父の家です。

この時代にも、偽の教師がたくさんいます。
聖なる中心を失い、世の風俗に従っていく牧師たち。
ああ、私も例外ではありません。
あなたの家を離れると、罪の勢力が私を飲み込んでしまいます。
私が求めているのは、毎日、神様の家にいることです。

イエス様のみ名によってお祈りいたします。 アーメン。