13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。
ヨハネの手紙第一において、偽教師たちはイエスの受肉を否定していた。
彼らは「肉体は汚れており、霊は清い」というグノーシス思想に基づき、教会共同体を惑わせた。
しかし、イエスが肉体を取って来られたことを否認する霊は、反キリストの霊である。
イエスが肉体を取って来られたことを告白する霊こそ、神に属する霊である。
イエスが肉体を取って来られたことは、神の愛が私たちに現れた出来事である。
神は独り子を遣わし、その御子を通して命を与えてくださった(4:9)。
また、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。(4:10)。
したがって、救いとは、神が遣わされた御子を信じて罪の赦しと命を得ることである。
これは神だけがなし得る「異質の愛」が私たちに現れたものである。
この愛を受けて罪の赦しと命を得た私たちは、その愛に応答しなければならない。
それは神からいただいた「異質の愛」によって兄弟姉妹を愛することである。
このように互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされることを知る(相互内住)(12節)。
13-21節では、キリストを信じる信仰告白と、その実りである兄弟愛が続けて語られる。
神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かる(13節)。
3:24では、神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神も また、その人のうちにとどまる。神が私たちのう
ちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かると記されている。
13節では「命令を守ること」から「御霊によって知ること」として表現されている。
御霊によって、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証ししている。(14節)。
すなわち、御霊によって「イエスが神の御子である」と告白するなら、神が私たちのうちにとどまり、私たちも神のうちにとどまることを知るのである(15節)。
父が御子を世に救い主として遣わされたのは、独り子を遣わしてその御子を通して命を与えるためであった。
イエスが神の御子であると告白する者は、神から生まれた者(永遠の命を得た者)である(5:1, 5, 13)。
神が御子を遣わされたこと、また私たちが御子を信じることは、人間の知識や理性によるものではない。
ただ御霊によって知る天からの知識である。
ヨハネ福音書6章で、イエスは「命のパン」について教えられた。
御子の肉を食べ、その血を飲む者はそのうちに命を持つ(ヨハ 6:53–54)。
しかし、そのときこれを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」と言った。(ヨハ6:60)
そのときイエスは「いのちを与えるのは御霊です。」と言われた(ヨハ 6:63)。
ゆえに、神が独り子を遣わし、罪の赦しと永遠の命を与えることは、ただ「御霊」によってのみ知ることができる。
16節において、命の共同体である「私たち」は、神の愛を知り、また信じている。
罪の赦しと永遠の命を与えることは、神の愛の現れである。
したがって、罪の赦しと命を与える御子を信じることは、神の愛を知り、信じることにほかならない。
それは「神は愛」であるからである。
このように、愛のうちにとどまる者は神のうちにとどまり、神もその人のうちにおられる。
13節では、御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられると述べられていた。
16節では、「愛なる神」を知り、信じることによって、神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまって おられる。
御霊による相互内住と、愛なる神を知り信じることによる相互内住とは、同じである。
17–18節は、「愛のうちにとどまること」が、現在の救いのみならず未来の救いをも保証することを示す。
愛が私たちに全うされるのは、さばきの日に確信を持つためである。
ここでの「確信」とは、裁きの日に神の御前に立つ資格を意味する。
私たちが裁きの日に神の御前に立つことができるのは、神が独り子を遣わされた「愛」のゆえである。
そして、この愛を受けて兄弟を愛するなら、その愛が私たちに全うされる(12節)。
そのとき私たちは、裁きの日にも恐れることなく神の御前に立つのである。
17節後半には「この世において、私たちもキリストと同じようであるからです」とある。
これは裁きの日に確信を持てる根拠である。
すなわち、主が父の愛のうちに生きられたように、私たちも「愛のうちに」生きるとき、裁きの日に確信を持つのである。
人にとって究極的な恐れは、ただ神の御前に立つ恐れである。
それは個人の終末であれ、宇宙的な終末であれ、そのとき神の裁きの座に立たされるからである。
しかし、神の愛のうちにあって兄弟を愛する者は、裁きの日にも確信を得るので、恐れることはない。
神の愛のうちに兄弟を愛する生き方は、あらゆる恐れに勝利する。
一方で、恐れには罰が伴う。すなわち、恐れそのもののうちに罰がある。
したがって、恐れのある者は、まだ愛において全うされていない者である。
愛において全うされた者とは、神の愛のうちに兄弟を愛する者である。
「いまだかつて神を見た者はいない。しかし、もし私たちが互いに愛し合うなら、神が私たちのうちにおられ、その愛が私たちのうちに全うされるのである」(12節)。
19–21節では、神が先に愛されたその愛によって、兄弟愛を勧める。
10節では「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」と語られていた。
19節では「す。神がまず私たちを愛し てくださった」と語られる。
私たちは、神が先に示してくださった愛を受けて、互いに愛し合う。
ゆえに、「神を愛している」と言いながら兄弟を憎んでいるなら、 その人は偽り者である(20節)。
彼らは「神を知っている」「神のうちにとどまっている」と言いながら兄弟を憎む、偽り者たちを指している(2:4)。
見える兄弟を愛さない者が、見えない神を愛することはできない。
したがって、見えない神を愛する者は、見える兄弟を愛する者である。
私たちはこの命令を神から受けたのである(21節)。
この段落において、真の生とは裁きの日に確信を持つ生である。
それは、神からいただいた愛によって兄弟を愛する生である。
兄弟愛の源泉はただ神にある。
人間には兄弟愛の資源がない。人間的な同質の愛には限界がある。
クリスチャンの兄弟愛は、人間的な愛ではなく、神のうちにいただく愛によって実践される。
神の愛のうちにあって、敵にさえも愛を示す生き方は、裁きの日に大胆さを与える。
死の場にあってさえ恐れないのは、裁き主である主の御前に立つからである。
イエス・キリストは、ただ神の愛のうちにあって兄弟を愛された。
だからこそ、彼を殺す者たちにさえも赦しを祈られた(ルカ 23:34)。
「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼 らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているの かが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。(ルカ 23:34)。
神の愛のうちに救われたステパノも同様であった。
彼は福音を宣べ伝え、拒絶する者たちの手により殺された。
しかし、彼は神の愛のうちにあって、自分を殺す者たちを最後まで愛した。
彼らの罪をそのままにしないように祈りつつ、息を引き取った。
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、 彼は眠りについた。(使徒 7:59–60)。
すべてのクリスチャンは神の愛を受けた者である。
彼は御霊によって、独り子を遣わし、罪の赦しと命を与えてくださった神の愛を知り、信じた。
この神の愛のうちに兄弟を愛する者である。
彼が何も恐れないのは、究極の恐れから解放されたからである。
イエスがそうであったように、ステパノがそうであったように、最後まで兄弟愛を実践するのである。
私は救いを確信していたが、神の愛をすべて知っていたわけではなかった。
御霊を通して独り子を遣わされたその愛を知る者は、最後まで兄弟を愛する。
ああ、私はせいぜい人の愛で自分を満足させていただけにすぎなかった。
愛していると言いながら、私を批判し、罪に定める者に対してやり返そうとしていた。
憎み、裁き、罪に定め、同じ罪を犯していた。
しかし、私の主は罪によって死ぬべき者の死を喜ばれなかった。独り子を遣わされたその愛を知った。
自分自身さえも受け入れられない惨めな者を、独り子の死を通して受け入れてくださった。
罪の赦しだけでなく、永遠のいのちをも与えてくださる神の愛を知った。
ステパノは、自分を殺す者にさえも、神から受けた愛をもって愛した。
ああ、隠れていた私の罪悪が赤裸々に現れる。
自分を殺す者を愛するどころか、小さいな批判を受けても愛することをやめてしまう。
それも世の人ではなく、家族や共同体の中でのことなのだ。
それなのにどうして私が神の愛のうちにとどまっていると言えるのか。
今日も自分の姿を見れば、ただ嘆息しかない。ああ、私は惨めな者だ!
悔い改めてひれ伏し、主のあわれみを求める。
ステパノの最期を目撃し、私の最期もそのようであることを慕い求める。
すべての人、敵にさえも愛をもって、裁きの日に確信を持ちたい。
究極的な恐れから解放されることによって、すべての恐れから解放される。
これは、神の愛が私のうちにあるゆえに、いくらでも可能なことである。
今日も、この愛をもって生きたい。
神様…
救われたと告白しながらも、なお私はあなたの愛を知りませんでした。
独り子をお遣わしくださったその深い愛を、御霊によって悟ることができませんでした。
兄弟を愛することもできない私が、どうして敵を愛することなどできるでしょうか。
自己の執着に閉じこもり、同類への狭い愛にとらわれていました。
人を愛すると言いながらも、それはあなたの愛によるものではなく、自己の益を求める愛にすぎませんでした。
私を批判し、逆らう人々を憎んでしまいました。
神様…
御言葉の光の中で、死に値する者である自分を見ました。
和解の供え物として来られた御子を信じる信仰によって、罪の赦しを賜りました。
あなたの愛によって遣わされた独り子を信じることにより、永遠のいのちを得させていただきました。
今は日ごとに御言葉に養われ、いのちに生きる者とされています。
惨めな者にすぎない私が、日ごとにあなたの愛をいただいております。
神様…
それなのに、どうすればよいのでしょうか。
あなたの愛にとどまると告白しながらも、気に入らぬ兄弟を憎み、
私に言い争いを挑み、裁き、罪に定める者たちを憎んでしまいます。
このような私の内に、どうしてあなたの愛がとどまることができるでしょうか。
主よ、目を上げて主を仰ぎ見ます。
再び兄弟を愛する者とされ、裁きの日に恐れることなく立てるようにしてください。
あなたの愛に根ざして兄弟を愛する生涯は、すべての恐れを打ち破ります。
やがて来る裁きの日の究極の恐怖をも打ち破る者は、すべての恐れから解き放たれます。
ハレルヤ!
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
