聖書の黙想2025/10/18

ペテロの手紙第一1:12の黙想

1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って
寄留している選ばれた人たち、すなわち、2 父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらし
ます。8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。10 この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。12 彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。
そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告
げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。

本文の注解

新約聖書の『ペテロの第一の手紙』は、イエスの第一の弟子であるペテロが記した書簡である。宛先は小アジア全域に散在する教会と信徒たちである。執筆地は「バビロン」と象徴的に呼ばれるローマである(5:13)。記録年代は、キリスト教が迫害を受けていた紀元64年前後と推定される。ペテロはこの書簡の中で、迫害の中にある信徒たちを慰め励まし、終末的希望に基づいて、キリスト者として責任ある生を生きるよう勧めている。

第1章はパウロ神学に通じる福音の核心を扱い、第2〜5章は苦難と迫害の中にある聖徒が世にあっていかに生きるべきかを勧めるものである。それはキリストの従順に倣う従順の生である。キリスト者にとって従順の生とは、卑屈でも無力でもなく、救いの神の美しい徳を宣べ伝える栄光の生である。

1:1–12は書簡の序言である。1–2節は挨拶、3–12節は現在と未来の救いに関する賛美である。

ペテロは「イエス・キリストの使徒」として、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち宛てに手紙を書きながら、恵みと平安を祈る(1節)。これらの地名はローマ帝国の属州を指す。「散って寄留している選ばれた人たち」(ディアスポラのパレピデーモス)とは、世にあって異郷人である者、すなわちこの世に適応しきれない少数者を意味する。この世の「異邦人」としてのキリスト者は、神に選ばれた者である。

では、キリスト者はいかにして神に選ばれたのか。父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれたのである(2節)。私たちが神に選ばれたのは、三位一体の神の救いの働きによるものである。
「イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように」とは、キリストの血によって選ばれた者が、従順を目的としていることを意味する。この「血の注ぎ」という表現は、モーセが契約を結ぶ際に血を民に注いだ出来事(出エジプト24:8)を想起させる。新約聖書ではこの表現はここで一度だけ用いられており、イエスの死を象徴し、救いの意味を持つものとして理解される(ローマ5:9、ペテロ第一5:10)。この死には贖罪と契約の効力がある。

3節は救い主なる神を賛美する句であり、エペソ人への手紙1:3–5のパウロの救いの賛美と並行する。
ペテロの手紙第一1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
エペソ人への手紙1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

パウロとペトロは神の名を「主イエス·キリストの父」と呼ぶ。 旧約時代の約束の神様はアブラハムとイサクとヤコブの神様と呼ばれた。 新約時代のイエス·キリストによって私たちを神の息子たちにさせた神は「私たちの主イエス·キリストの父」だ。 これはイエス·キリストが父なる神様の息子であることと、彼を信じる者も父なる神様の息子であることを確証する。

イエス·キリストの父である神は、彼の哀れみに従って、私たちに新しい命を与えた(3節)。 すなわち、イエス·キリストによって自分の息子たちになった(エペソ人への手紙1:5)。 ここでイエス·キリストによるものはイエス·キリストの死と復活を信じることによるものだ。 イエス·キリストの死と復活は福音である。 したがって、福音によっていのちと不滅を明らかに示された(テモテへの手紙第二1:10)。

信仰によって得られる「新しい命」は「生ける望み」である。生ける望みとは、朽ちず、汚れず、消えない相続を持つことである。新しい命を得た者は神の子であり、またその相続人である。この遺産は天に蓄えられ、朽ちることがない。

この相続が消えることのない理由は、5節にある。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。(5節)。地上での生は多くの試練によって悲しみを伴う。しかし、最終の救いの日まで神の御力により守られているゆえに、どんな試練の中にあっても大いに喜ぶことができる。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、(6節)

これらの試練は、火によって精錬される金よりも尊い「信仰の精錬」をもたらす。ギリシア語の「ドキミオン(試練)」は「ドキモス(純正)」に由来し、100%純金貨を扱う商人を意味した。信仰においても、試練を忍耐して生み出される純粋な信仰を「ドキミオンの信仰」と呼ぶ(ローマ5:3–4)。それは人格的にはキリストの満ちた丈に達する信仰である(エペソ人への手紙4:13)。

この「信仰の精錬」は地上の宝である金よりも価値がある。それは、キリストが現れた時に称賛と栄光と誉れを受けるからである。

ペテロは試練の中にあるキリスト者たちを励ます。
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」(8–9節)。

イエスの弟子たちは、イエスを直接見ただけでなく、死んで復活されたキリストまでも直接見た。しかしその後の世代のキリスト者たちは、イエスを直接見たことはない。彼らはキリストの死と復活の福音を信じて新しい命を受け、神の子とされ、天に蓄えられた受け継ぐべき資産を受けた者たちである。彼らはそれだけで、言葉に尽くせない栄光に満ちた喜びにあふれている。なぜなら、彼らは信仰の目的である魂の救いを得ているからである。

10–12節では、現在私たちが受けている救いが、かつて預言した預言者たちよりもはるかに優れていることを明らかにしている。これは、やがてキリストが現れるときに完成される救いが、今私たちが得ている救いと比べものにならないほどすばらしいものであることを強調するためである。

旧約の預言者たちは、私たちが受けたこの救いについて詳しく調べ、研究した。そして、今私たちに与えられる恵みについて預言した。それがいつ、どのような形で実現するのかを研究していたとき、彼らの内におられたキリストの霊が、キリストに臨む苦難とその後に来る栄光を前もって証しし、示してくださった(11節)。

旧約の預言者たちの内にはキリストの霊があり、キリストがいつ、どのように来られるかを示された。注目すべきことは、今、宣べ伝えられているキリストは、すでに預言者たちを通して預言されていた方であり、したがって旧約聖書の約束とつながっているという点である。旧約聖書が将来来ると証ししているキリストは、苦難と栄光のキリスト。すなわち、死んで復活されるキリストである。

ところが、預言者たちは、彼らが仕えていたそのこと、すなわちキリストに関する出来事が自分たちのためではなく、新約時代の聖徒たちのためであることを啓示によって知らされた(12節)。それらの出来事は、天から遣わされた聖霊の力によって福音を伝える者たちが、私たちに宣べ伝えたものである。そしてそれは、御使いたちもそれをはっきり見たいと願っていた(12節)。

旧約時代の預言者たちは、やがて来られるキリストの苦難と栄光をあらかじめ証した。その内容は、キリストが死者の中から復活され、彼を信じる者に新しい命を与えるというものである。
それは天に蓄えられた永遠の相続財産であり、私たちの信仰を通して最終的な救いに至るまで、神の力によって守られている。つまり、それは決して奪われることのない永遠の財産である。

そのゆえに、私たちは試練や苦難にあっても大いに喜ぶことができる。私たちが受ける試練や苦難は決して無駄ではない。それは信仰を練り清め、キリストが現れるときに誉れと栄光と尊敬を得るものとなる。それは地上の金にも比べられない永遠の宝である。。

このように、福音によって得た命は、偽りのない神が天地創造の前から約束された命です(テトスへの手紙1:2)。最初の人アダムが罪を犯したにもかかわらず、神はこの約束を守られた。神はアダムが罪を犯したその場で、女の子孫と皮の衣をもって、やがて来られる御子の死を予示された(創世記3:15, 21)。それは、アダムとその中にあるすべての罪人の罪を御子が担い、彼を信じる者に永遠の命を与えるためであった。その後も神は預言者たちを通して御子について約束され、その約束のとおり御子が来られた。

私たちクリスチャンが受けた救いは、旧約時代の預言者たちの証しと、終わりに現れるキリストとの間に位置している。旧約の預言者たちが約束したとおりキリストが来られ、私たちは魂の救いを受けた。この救いこそ、預言者たちも、さらには御使いたちさえも憧れる、天に蓄えられた生ける望みである。そうであるなら、やがてキリストが現れるときに受ける最終的な救いは、どれほど驚くべき、偉大なものとなるだろうか。その救いは神の力によって守られているゆえに、確かに保証されているのです。

ゆえに、私たちはその栄光を先取りして喜び楽しむことができる。たとえ苦難や試練があっても、それはむしろ金よりも尊い信仰の練達を生み出す。その結果、私たちは今、言葉に尽くせない栄光に満ちた喜びにあふれて喜ぶ。この喜びは、人間の言語能力や表現力では到底説明し得ない、天的な喜びである。

私の黙想

人間の成し遂げたものは、それを失うかもしれないという不安に常に脅かされている。貴いものであればあるほど、その不安は深くなる。愛もまた、失う恐れによって苦しむ。物質を最も大切にする者は、それを失う不安から、さらに多くの物を持ちたがる。子どもを究極の関心とする者は、子どもに何か起きるのではないかと恐れる。大切であるがゆえに、失うことを恐れるのだ。

しかし、地から出たすべてのものはやがて朽ち、古び、消え去る。天に蓄えられたものだけが永遠である。それはイエス・キリストの死と復活によって与えられた新しい命である。これは偶然ではなく、三位一体の神の働きによって選ばれた者に与えられた恵みである。この御言葉の前で、改めてこの恵みに圧倒される。

私は神に選ばれた栄えある存在である。しかし、この世における私の実存は寄留の者、異邦人、奇異に見られる者である。もしクリスチャンが世に親しまれ、世的に認められるならば、それは初代教会の姿から離れたものとなる。ある人は、世の基準から見て「お気の毒に」と言われることこそ、真のクリスチャンのしるしであると語った。

この言葉を読みながら、聖書が示す「真のクリスチャンのしるし」を思う。私は世の人々からどれほど「お気の毒に」と言われているだろうか。その言葉を恥と感じ、「よかったですね」と言われることを願ってはいないだろうか。自分の持つもので自らの価値を測ろうとする俗物根性が、骨の髄まで染みついている。天に蓄えられた尊い相続を軽んじ、消えゆくものに心を奪われる愚かさを思い知らされる。

改めて御言葉の前で、大いなる喜びを見出す。預言者たちが待ち望んだ救いを受けた者として、また主が来られる日に栄光のうちに現れることを望みつつ喜ぶ。言葉では言い尽くせない天の喜びが私の内に満ちるよう祈る。

黙想の祈り

神様…
ペテロは苦難の中にあるキリスト者たちに手紙を書きました。彼らは三位一体の神の働きによって選ばれ、命を得た者たちです。しかし、地上での彼らの生は、世の基準から見れば寄留の者、異邦人、奇異な者です。世のものはすべて朽ち、古び、消え去りますが、彼らが得た相続は天に蓄えられた「生ける望み」です。それはキリストの死と復活によって与えられた新しい命です。御言葉を通して、改めて新しい命の恵みに感動いたします。

ああ神様…
私の救いは、旧約の預言者と、やがて来られるキリストとの間にあります。旧約の預言者たちが待ち望んだ救いを私は受けました。どうして喜ばずにいられるでしょうか。まして、やがてキリストが来られる時に得る救いを思うなら、その喜びは言葉では言い表せません。その日まで、全能の神の御力によって守られていることを信じます。私の救いが幻ではないように、その完成も確かなものです。

神様…
やがて来られる主の御前に、私はどのように立つべきでしょうか。辱めを受ける者ではなく、称賛と栄光と誉れを受ける者となりたいと願います。与えられた試練と苦難が、信仰の「ドキモス」を生み出すものとなりますように。終末の希望を見つめつつ、試練を喜び、忍耐する者とならせてください。言葉に尽くせない喜びをもって主に仕える者とならせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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