1ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、2生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
3あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。4主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。5あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。6聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は
決して失望させられることがない。」7したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、8それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。9しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。10あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。
世の中でクリスチャンの現実的な存在とは、「散らされた寄留者」である。しかしクリスチャンは、三位一体の神の救いの御業によって選ばれた、栄誉ある者である。彼はイエス・キリストの死と復活を信じることによって新しい命を与えられた者であり、それは決して消え去ることのない「生ける望み」、天に蓄えられた「永遠の嗣業」である。私たちが受ける救いは、終わりの日の完成に至るまで、神の力によって守られている。ゆえに、苦難と試練の中にあっても大いに喜ぶことができるのである。
キリストの再臨の時に与えられる恵みを待ち望む者は、以前の欲望に従って生きた行いを捨て、聖なる行いを持たねばならない。それは過去の生を捨て、真理に従うことによって偽りのない兄弟愛を実践することである。私たちは「生きており、いつまでも変わらない御言葉」、すなわち福音によって新しい命に生まれた。第2章では、この新しい命にふさわしい生き方がさらに勧められている。
2章1–3節では、新しい命を受けた者として「捨てるべきもの」と「慕い求めるべきもの」が示されている。4–10節では、比喩と旧約聖書の引用を通して、「王である祭司」としての召命と使命が語られる。
救いは人間から出るものではない。神さまのみが福音を通して新しい命を与えられる。そして新しい命を得た者は、それと両立し得ない悪しき性質を捨てねばならない。ここでは5つの罪が挙げられている「すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口」である(2:1)。
「ですから」という言葉は、前の段落(1:13–25)とつながる接続語であり、「生きている御言葉」、すなわち福音によって新しい命を得た者に当然求められる生き方を導く。新しい命を受けた者は、この5つの悪徳を捨て、「純粋で霊的な乳」を慕い求めるべきである。それらの悪徳は、救われる以前の生き方の特徴である。
一方、新しい命を得た者は、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋で霊的な乳を慕い求めなさい」(2:2)。ここでいう「純粋で霊的な乳」は「純粋な御言葉の乳」と訳すのが適切である。すなわち「生きている御言葉、すなわち福音」である。福音は新しい命を生み出すと同時に、その命を育てる。
御言葉の乳とは、キリスト者に自らの罪と惨めさを悟らせるものである。その時、イエス・キリストを通して神がなされた救いの御業――すなわち福音――が力を発揮する。惨めな存在であった人間は、福音の中で尊い者とされ、父の家へと導かれる。そこから恵みとまことがあふれ出る御子の栄光を見るのである(ヨハネ1:14)。これこそが、日々福音を聞き続けることによって新しい命が成長するということである。もし私たちが主の恵みを味わったならば、必ずや「純粋で霊的な乳」を慕い求めるであろう(2:3)。神はその恵みによって私たちを救い、成長へと導かれる。
4–8節では、「生ける石」としてのキリストと、そのキリストを信じて選ばれた聖徒の召命が語られる。
キリストは人々からは捨てられたが、神からは選ばれた「生ける石」である(2:4)。彼に近づく者は皆、「生ける石」として「霊的な家」に築き上げられていく。新約聖書において「石」はしばしば死を象徴する(マタイ3:9参照)。
「生ける石」とは、死者の中からよみがえられたキリストを意味する。キリストの埋葬と一体化した者は、復活のキリストにおいて共に生かされる(コロサイ2:12)。復活したキリストの体が神殿であるように(ヨハネ2:21)、キリストと連合した者もまた神殿として築かれていく(Ⅰコリント3:16)。「生ける石」であるキリストの復活に連なって、私たちも「霊の家」、すなわち神殿として建て上げられるのである。
こうして「霊の家」とされた者は、神が喜ばれる「霊的ないけにえ」をささげる「聖なる祭司」である(2:5)。救われたすべての聖徒は「聖なる祭司」である。ゆえに新約において、司祭や神父と一般信徒を区別する考えは見直されねばならない。すべてのキリスト者は、神が喜ばれる霊的なささげ物を献げる「聖なる祭司」なのである。
聖なる祭司がささげるいけにえとは何か。旧約において真のいけにえは単なる動物ではなく、「祈り、賛美、感謝、善行、悔い改め」であった(詩篇50:14、51:19、ホセア6:6、ミカ6:6参照)。この思想は新約においても引き継がれ(ヘブル13:15–16)、それは内面的で霊的な実体を指す。すなわち「霊的ないけにえ」とは、自らの全存在を神にささげることである(ローマ12:1、ピリピ4:18)。
「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)。
6–8節では、旧約の引用を通して「霊の家」がさらに説明される。6節はイザヤ28:16の引用である。「それゆえ、【神】である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。」
イザヤ書において「礎の石」は新しい神殿の基礎石、または信仰を象徴しており、必ずしもメシアそのものを指すわけではない。しかしペテロはこれをメシア(キリスト)として解釈する。「それを信じる者」とは「キリストを信じる者」であり、「要の石」とは「キリスト」である。人々はこの「要の石」を退けた。キリストの死と復活は、不信の者には拒まれるが、信じる者には恥とはならない。キリストの十字架は、不信の者には愚かに見えるが、信じる者には神の救いの力なのである(Ⅰコリント1:18)。
7節後半は詩篇118:22の引用である。「家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。」詩篇では、捨てられた石は諸国に蔑まれたイスラエルを指し、「要の石」とは神によって栄光を受けたイスラエルを象徴する。しかしペテロはこれを、捨てられたが栄光を受けたキリストに適用している(2:4参照)。
キリストは捨てられた石(死)であったが、神によって「要の石」(復活の主)とされた。ゆえに、その死と復活を信じる者にとってキリストは「尊い宝」であり、「救いの礎」である。しかし信じない者には、捨てられた、つまずきの石にすぎない。
8節はイザヤ8:14の引用である。「そうすれば、主が聖所となる。しかし、イスラエルの二つの家にとっては妨げの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には罠となり、落とし穴となる。」イザヤ書では、神を信頼しない指導者と民が「つまずく」と語られる。神を信頼しない者は、神ご自身によってつまずかされる。ペテロはこれを、福音を拒む者に対する裁きとして理解している。
福音は常に二つの結果をもたらす。福音は救いをもたらすと同時に、裁きをももたらす。信じない者にとって、福音はつまずきであり、彼らは裁きを受ける。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(ヨハネの福音書3:17–18)。
「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。」(Ⅱテサロニケ1:7–8)。
福音を拒む者は、神によってそのように定められている(2:8後半)。人間の本性はもともと福音を拒むものである。「定められた」とは、神が彼らに恵みを与えられなかったという意味である。ここには、神の主権と人間の責任という新約聖書の二つの真理が同時に示されている(ピリピ2:12–13)。
9–10節では、福音を受け入れた信者に与えられる栄誉ある呼称と使命が語られる。
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。10あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」
福音を受けて救われた者は、神の契約の民である(2:10)。これは、出エジプト記19章5–6節で語られたイスラエルの召命と並行している。
「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」出エジプト記19章5–6節
救われた者は「神に選ばれた民」、「王的な祭司」、「聖なる国」、「神の所有とされた民」である。
2章5節での「聖なる祭司」は、2章9節の「王的な祭司」と対応している。前者は神に霊的なささげ物を献げる存在であり、後者は世に向かって神の驚くべき御業を宣べ伝える使命を持つ。「聖なる祭司」は神との関係を、「王的な祭司」は世における使命を強調している。
祭司としての信徒は、自己の敬虔さのためだけに生きる者ではない。霊的自己満足に陥って世から孤立するのではなく、今なお闇の中にある人々に、光の中へ導かれた神の救いの御業を告げ知らせなければならない。すなわち、あらゆる機会をとらえて人々に福音を宣べ伝え、彼らを闇の力から愛する御子の国へ移す使命を果たすのである。
「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」( コロサイ人への手紙 1:13-14 )。
神はすべての信者を「聖なる祭司」そして「王的な祭司」として召された。彼らは神に喜ばれる霊的ないけにえをささげ、世にあって福音を告げ知らせる使命を担う。
キリスト教史の中で最大の誤りの一つは、すべてのキリスト者が祭司であるという真理をゆがめたことである。すなわち、「祭司職を持つ聖職者」と「その支配下にある平信徒」との区別が作られたことである。
新約聖書には「平信徒」(ギリシア語:ライコス)という言葉は存在しない。現代の表現で「平信徒」と呼ばれるステパノやピリポも、使徒たちと同じく福音を宣べ伝えた(使徒6:8-5:53; 8:5-13; 26-40参照)。
16世紀の宗教改革において、「万人祭司」の教理がルターによって回復された。これは、すべての聖徒が「聖なる祭司」であり「王的な祭司」であるというアイデンティティの回復である。これは新約聖書、特にペテロの手紙における中心的真理である。
今やすべての信者は、神に近づく「聖なる祭司」として、また世にあって神の驚くべき御業――すなわち福音――を宣べ伝える「王的な祭司」として召されているのである。
キリスト教の歴史の中で最大の誤りの一つは、「すべてのキリスト者が祭司である」という真理をゆがめてしまったことであった。すなわち、「祭司職を持つ聖職者」と「その支配下にある平信徒」という区別を生み出してしまったことである。
今日、ペテロの手紙が私たちに教えようとしているのは何であろうか。それは、日々神の御許に進み出る者は、機会あるごとに、神の美しき御業である福音を宣べ伝える者であるということである。そして、暗闇の中にいた人々を命の光の中へと導くことである。福音を宣べ伝え、命に至らせることである。
では、誰が真の祭司なのであろうか。今や、牧師と信徒の区別は存在しない。誰であれ、福音を聞いて命を得、その福音を聞き続け、宣べ伝える者こそが、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」(Ⅰペテロ2章9節)という言葉に生きる者である。
神様……
私は長い間、福音も、その目的であるいのちも知りませんでした。
御言葉の前に直接出ることよりも、人々から学んだことを福音として伝えてきました。
しかし、聖書が証しする福音は、いのちを得させ、そのいのちを成長させるものです。
福音を誤って理解していたゆえに、その力が現れるはずもありませんでした。
ああ神様……
あなたは聖霊によって啓示された御言葉を通して、一つひとつ教えてくださいました。
聖書が証しする福音を聞くことで、永遠のいのちを知り、さらに豊かに味わうようになりました。
今は日々あなたに近づく聖なる祭司として、あらゆる機会を用いて神の福音を伝えさせてくださいます。
神様……
今や、誰であっても福音を聞き、成長し、伝える者は聖なる王なる祭司です。
たとえ「牧師」という称号を得たとしても、福音に無知であり、福音によって成長しなければ、それを伝えることはできません。人から与えられる職分がなくても、福音によっていのちを味わい、それを伝える者は、聖なる王なる祭司です。
今日も御言葉の前で福音を聞き続ける兄弟姉妹のために祈ります。福音を聞いて新しいいのちが育ち、聖なる王なる祭司の使命を全うできますように。苦しみの中にあっても、それは最も栄誉ある職分です。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
