聖書の黙想2026/02/19

ペテロの手紙 第一 3:13-22


13もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。14たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。15むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。16ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。17神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。18キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。19その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。20かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。21この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。22イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです

本文の注解

ペテロは、苦難と迫害に耐えている信徒たちに手紙を書いている。著者は、キリスト者が苦難の中にあってもキリストの足跡に従うことによって、自らの信仰の真実さを証明するよう励ましている。キリスト者が受ける苦難は、キリストの苦難にあずかることである。それは決して無意味でも無益でもなく、最終的な救いの日にキリストの栄光にあずかることへと導く。

3:13–22は、善を行うことによって苦しみを受けるのは神の御心であること、そしてそれが罪なきキリストが苦難を受け、信じる者を神のもとへ導かれたことに基づいていると語る。13–17節は一般的な勧告であり、18–22節は挿入句としてのキリスト論的伝承である。この伝承は、キリスト者たちの苦難を念頭に置いて挿入されたものである。

13–17節の勧告は一つの問いから始まる。「もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」(13節)当然、その答えは「だれも害を加えない」ということが予想される。この節は、キリスト者が善い行いをするならば、中傷する異邦人でさえ神に栄光を帰するという思想(2:12)を反映している。

では、キリスト者が良いことに対して熱心であるならば、まったく苦難がないのだろうか。必ずしもそうではない。続く14節では、むしろその逆の場合が想定されている。たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いである。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけない。したがって、キリスト者は善を行うとき、どのような反応が来ようとも恐れてはならない(14節)。

キリスト者は人々の反応を恐れる代わりに、むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(15節)。その説明が真摯な探究心から来るのか、表面的な好奇心からなのか、あるいは反論のためなのかについては言及されていない。

しかしキリスト者は、このような世の説明を求める人を回避せず、常に答える備えをしていなければならない。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明するべきである。なぜなら、キリスト者が持つ希望は神が恵みによって与えられたものであり、決して誇ることのできるものではないからである。

特にキリスト者は、説明を求める人々の前で善い良心をもって応じるべきである。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(16節)。神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。(17節)。

キリスト者が善を行うことによって苦しみを受けるのは、イエスの苦難と死に根拠を持つという点で神の御心である。パウロも、私たちがキリスト者となることはキリストとともに苦しむことであると語った(ローマ8:17、ピリピ1:29)。今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。(ローマ8:18)。

18–22節は、神の御心に従って苦難を受けられたキリストの伝承である。
18キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(18節)。
キリストの苦難は、罪の赦しのための「贖罪の思想」と、正しい者が不正な者の代わりに死ぬ「身代わりの思想」に基づく神の御心である。それは私たちを神のもとへ導くためであった。すなわち、イエス・キリストは正しい方として不正な者の代わりに死なれ、霊において生かされ、神へと至る道を開かれたのである。

注目すべきは、イエス・キリストの死と復活が単に贖罪や身代わりの思想にとどまらないことである。それを通して救われた者が神へと近づくことが可能になったのである。

19–20a節では、死なれたのち復活されたキリストの救済行為には、死者のいる場所、すなわちハデス(地下の牢)へ下ることも含まれると述べられる。「その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。」

この箇所は「ハデスへの宣教」と呼ばれ、新約聖書の中でも難解な箇所の一つである。カトリック教会では、この節を根拠に死者に再び救いの機会が与えられると解釈することがあるが、それは誤解である。ここで重要なのは、キリストが墓においてあらゆる死の勢力を打ち破られたという点である。

本文は、肉体を伴わない霊のみの復活と肉体の復活を区別し、ハデスへの旅と天への昇天を区別している。すなわち、肉体の復活が実現する前の三日の間、キリストはハデスへ行き、そこで霊たちに宣言された(19節)。そして肉体をもって復活された後は、天に昇り、神の右におられる(22節)。

イエス・キリストは十字架で死なれ、三日の間墓におられた。そして三日目に肉体をもって復活された。その間、霊において生かされ、捕らわれている霊たちのところに行って宣言された。ここでいう「捕らわれている霊たち」とは、創世記6章に出てくる、人の娘たちの美しさを見て彼女たちと結婚した「神の子ら」を指す(創6:2)。これは堕落した天使たちと理解される。その霊たちは、ノアが箱舟を造っていた間、従わなかった者たちである(20a節)。

こうして、箱舟に入り、水を通して救われた者はわずか八人であった(20b節)。その水は、新約時代に信じる者を救う洗礼の水を前もって示すものである。「この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。」(21節)。

バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。(21b節)。それは外面的な清めではなく、善い良心を求める祈願である。洗礼によって起こる救いとは、善い良心をもって生きようとする人間の願いに対する神の応答なのである。

この記述は、新約聖書における他の洗礼理解と異なるようにも見える。新約聖書では、洗礼はキリストの死と葬りにあずかり、新しい命に生きる効力を持つとされる(ローマ6:4)。しかし、洗礼の救いの力がキリストの死と復活に根拠を置くという点で、相互に関連している。

22節は、キリストの昇天の伝承を述べる。
「イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。」ここで「天に上り」「神の右におられます」「御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従している」という三つの表現は、死者の中からよみがえられたキリストの復活を確証するものである。

古代思想においては、天と地の間の中間領域を支配する闇の同盟勢力(天使、権威、力)が存在すると考えられていた。いまやキリストは天に昇ることによって、それらをすべて従わせられた。そして万物の支配者として神の右に座しておられる(エペソ1:20–21)。

19節では、キリストは墓におられたとき、霊において「行って」、地の下にいる霊たちに宣言された。これは堕落した天使たちを従わせると同時に、キリストの救いが最も深刻な堕落さえ克服できることを宣言するものである。22節では、キリストは復活し、神に敵対する同盟勢力を従わせ、天に上られた。

19節の「行く」と22節の「上る」は同じ動詞が用いられている。19節の「捕らわれている霊たち」と、22節の主なるキリストに従う「御使いたちも、もろもろの権威と権力も」は並行関係にある。キリストの昇天そのものが、神に不従順で敵対する霊たちに対する勝利なのである。

この段落で著者の主たる関心は、キリストの復活そのものよりも、キリストの苦難にある。すなわち、キリストが正しい方として死に至るまで苦しみを受けることによって、私たちを神へと導かれたということである。これこそ神がキリストに定められた御心であった。ヨハネの福音書において、父なる神の御心は永遠のいのちである(ヨハネ6:40)。永遠のいのちとは、御子によって父のもとへ近づき、父の家に住まう霊的現実である(ヨハネ17:3,24)。

キリスト者が善を行うことによって苦しみを受けるのは神の御心である。それは、キリストが苦しみを通して成し遂げられた神の御心に従うことである。私たちは永遠のいのちを持っているが、肉体の限界のゆえに、キリストによって神へ近づくこと自体が苦難である。さらに、この世にあって永遠のいのちから生まれる善い行いを示すこともまた苦難である。

しかし重要なのは、キリストが死に、葬られ、復活されたことによって、あらゆる闇の同盟勢力を打ち破られたという事実である。ゆえに私たちは、この福音によって、いつでも父の家へと近づくことができる。キリストによって神へと近づくことは、闇の勢力に支配された古い命ではなく、新しい命へと進むことである。すなわち、いのちの交わりは古い命ではなく、新しい命によるのである。だからこそ、私たちの状態がいかなるものであっても、福音によって新しい命として神に近づく。その結果として受けるすべての苦難は神の御心であり、栄光ある苦難なのである。

私の黙想

イエスを信じていようと信じていまいと、人生の苦難を避けることはできない。私はかつて、「イエスを信じれば“苦労は終わり、祝福が始まる”」という幼稚な考えでイエスを信じた。イエスを、自分の人生を守ってくれる守護神のように考えていたのである。だから苦難が続くと、自分の信仰心が足りないのだと思い込み、さらに熱心に、しかも盲目的に信仰的行為を重ねた。今日熱心に信じれば、明日はもっと良くなるはずだと、自らにむなしい希望を抱かせていた。

無知なまま牧師となった私は、自分だけでなく、純真な信徒たちまでも歪んだ信仰へと導いてしまった。本来なら裁きを受けるべき者であった私が、どうして自ら悔い改めることができただろうか。悔い改めることさえ、神の恵みが臨まなければ不可能である。熱心になればなるほど、内なる人格は崩れ、魂の渇きは激しくなっていった。ついには限界に至った。正しい裁きが臨み、私は墓へと投げ込まれた。

しかし、私が投げ込まれたその墓に、キリストがおられた。主はあらゆる闇の勢力を打ち破り、墓からいのちへと導いてくださった。状況としては惨めな墓であっても、私の魂は父のふところで乳離れした子どものように、静かで平安であった。

キリストが義なる方として不義なる者のために死なれたのは、私にいのちを与え、父のみもとへ導くためであった。恵みがなければ、一日たりとも御言葉の前に進み出ることはできないし、キリストによらなければ父のみもとへ近づくこともできない。

だからこそ、今日も切に願い求める。ほかの恵みは取り去られたとしても、日々キリストによって父のみもとへ近づくこの恵みだけは、どうか取り去らないでほしいと。
キリストが死なれたことによって、神に近づく道が開かれた。私たちがその道を歩むゆえに受ける苦難それこそが、神のみこころにかなった苦難なのである。

黙想の祈り

神様……イエスを熱心に信じれば、苦難は消えるものだと錯覚しておりました。
牧師が無知であれば、自分だけでなく、純真な信徒たちをも誤らせてしまいます。
善を行うゆえに苦難を受けることが、神のみこころであるにもかかわらず、私は長い間、神のみこころとは無関係なことで苦しんでまいりました。
神のみこころとは、キリストが死によって開いてくださった道、すなわち、父なるあなたのもとへと近づくことです。それこそが、今ここで与えられている永遠のいのちです。

ああ、神様……無知な者が受けるべきものは、滅びのさばきです。私にも義なるさばきが臨みました。しかし不思議なことに、私は滅ぼされることなく、かえって御言葉の前へと導かれました。私が投げ込まれたさばきの墓の中に、キリストがおられました。キリストは墓の中で、すべての闇の同盟勢力を打ち破られました。主は、最も深刻な堕落に陥った者さえも救われます。
キリストの墓において、いのちの歩みが始まりました。ついに、キリストがその死によって開いてくださった道、父なるあなたのもとへと、私は近づくことができました。

神様……日々、キリストによって神に近づくことは、ある意味で苦難です。肉体には限界があり、闇の勢力が妨げます。しかし、この苦難こそが神のみこころです。私は自らの肉の限界をへりくだって認め、主の助けを求めます。キリストは死に、葬られ、そして復活され、すべての闇の同盟勢力に勝利されました。ゆえに今日も、福音によっていのちへと進みます。それは決して無駄ではない労苦であり、苦難です。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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