聖書の黙想2026/03/11

ペテロの手紙 第一 4:1-11

1キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。2それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。3あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。4異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、5彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。6このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
9不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。10それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。11語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。

本文の注解

悪を行うことによって自ら苦難を招く者もいれば、善を行っているにもかかわらず苦しみを受ける者もいる。キリスト者にとって、善を行うゆえに苦難を受けることは神のみこころである(3:17)。3:18–22は挿入句であり、善を行うことによって苦しみを受けられたキリストに関する伝承である。したがって、キリスト者が善を行うことによって苦難を受けることは、キリストの苦難にあずかることであり、神のみこころなのである。

3:18–22の挿入句を考慮すると、4:1は3:17から続く勧めである。主題は、善を行うことによって苦難を受けるという神のみこころに関する勧告である。1節においてキリストの苦難はキリスト者の苦難と関連している。ここでキリスト者が善を行うとは、罪をやめることである。罪をやめた者は、残された肉体の時を神のみこころのために生きるのである。その結果、世の人々から疑いと中傷を受けることになる。

「キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。」(1節)。

この手紙の著者であるペテロは、キリスト者に戦いのために武装することを勧めている。その戦いとは罪との戦いである。キリストは肉体の苦難を受けることによって罪を終わらせられた。肉体の苦難を受けて罪を終わらせた方とは、イエス・キリストを指している。人が禁欲や苦行などによって肉体の苦難を受けたからといって罪が止むわけではない。ただキリストのみが肉体の苦難を受けることによって罪の力を打ち砕き、罪を終わらせる効力をもたらされたのである。

しかしキリスト者は「同じ思い」で武装しなければならない。キリスト者が同じ思いで武装するとは、キリストの死に結び合わされて肉体が征服されることを意味する。私たちの古い人は十字架につけられたので、罪のからだは無力化され、私たちは罪の力から解放されたのである。キリストと同じ思いで武装するとは、十字架において肉体が裂かれる苦しみを受け、罪を終わらせられたキリストと完全に結びつくことである。それは罪のからだがすでに無力にされたことを受け入れることである。

「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷ではなくなるためです。」(ローマ6:6)。
キリスト者はキリストと結び合って武装し、残された肉体の時を人間の欲望に従って生きるのではなく、神のみこころに従って生きなければならない(2節)。キリスト者は救われたが、なお肉体をもってこの世の人生を生きている。罪の力は死ぬべき体を支配して、肉体の欲望を追わせようとする。しかしキリストの苦難によって武装した者は、残された人生を肉体の欲望のためではなく、神のみこころのために生きるのである。それは善を行うことによって苦難を受ける生き方である。

3節において、キリスト者は異邦人が肉体の欲望に従って生きていた以前の生活を捨てなければならない。それは好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、そして律法に反する偶像礼拝にふける生活であるが、そのような生活は過ぎ去った時で十分である。ここに挙げられている六つの項目は古代世界の人々の生活様式を表している。これは肉の行いであり、ガラテヤ5:20–21やローマ13:13–14とよく似ている。キリスト者もかつてはこのような生き方をしていたのである。

しかしキリスト者がこの過去の生活様式を捨てるとき、苦難を受けることになる。それは世の人々がそれを不思議に思い、悪口を言うからである。
「異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、」(4節)。キリスト者が過去の生活様式と決別するとき、周囲の世界との衝突が生じ、彼らから疑いと憎しみを引き起こすのである。

社会において一般的であった生活様式に従わず、放蕩の流れに巻き込まれない人は、場の雰囲気を壊す奇妙な人物、あるいは妨害者として見なされ、中傷される。しかしこの種類の中傷は、善を行うゆえに受ける苦難であり、キリストとともに受ける苦難であり、神に栄光を帰するものである(13節)。

5–6節は、キリスト者の新しい生活を不思議に思い中傷する者たちに対する警告である。
「彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。」

世俗的な生活様式と決別したキリスト者を不思議に思い中傷する者たちは、生きている者と死んだ者をさばく方の前で自分の行いを弁明しなければならない。人間には一度死ぬことと、その後にさばきがあることが定められている(ヘブル9:27)。神のさばきは信じる者にも信じない者にも普遍的に臨むのである。

死んだ者に福音が宣べ伝えられたのは、彼らが肉においてはさばきを受けても、霊においては神に従って生きるようになるためである。すなわち福音は、肉体においてはさばきを受けても、霊においては命を得させるものである。「死んだ者」という表現には二つの意味があると解釈されている。
第一に、それは生きている間に福音を聞いたにもかかわらず拒み、霊的に死んでいる者たちを指す(エペソ2:1–3)。
第二に、それは肉体的に死んだ者たちであり、堕落した天使や洪水時代の不従順な者たちとともに、キリストのハデスにおける宣言を聞いた者たちであると理解される。ここでいう死者とは、これから死ぬ人々ではなく、福音に接する機会がなかったキリスト以前の時代の人々を意味する。死者に福音が宣べ伝えられたのは、彼らに命を与えるためである。したがって、人間に福音が与えられず、命を得る可能性が全く与えられなかった時代は一度もなかったのである。

7–11節では、苦難に関する最終的な勧め(4:12–19; 5:6–11)に先立って、終末論に基づく勧告が示されている。すでに1:5、7、13では、キリストが現れる時を覚え、備え、喜ぶように勧められていた。ここでも終わりの時が近いことを覚え、苦難を正しく理解するよう勧めている。

7節は8–11節の一般的な勧めの根拠である。
「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」終末は近い。ゆえに心を整え、慎み、祈らなければならない。これは終わりの時に目を覚まし、その日に現れるキリストの前にふさわしく生きるよう促す言葉である。キリスト者にとって、迫り来る終末は倫理の動機なのである。

キリスト者が近い終末を覚えて心を整え慎むことは、終末を先取りして経験することに似ている。そのとき初めて、キリストが現れる日にふさわしい聖なる生活を生きることができるのである。

終末を先取りして生きるキリスト者は、熱心に愛し(8節)、不平を言わずに互いをもてなす(9節)。終末に目を覚ましている人こそ、熱心に愛することができる人である。熱い愛は多くの罪を覆う力を持っている。世においても、愛に目がくらめば相手の欠点が見えなくなる。「罪を覆う」とは、他人の過ちを暴き立てたり表にさらしたりしないことである。ただ神のことばだけが罪と過ちを明らかにし、神はそれを告白する者を赦し清めてくださるのである(ヨハネの手紙第一1:9–10)。

9節の「不平を言わずにもてなしなさい」という勧めも、「愛しなさい」という戒めに属する。新約聖書では客をもてなす行為が大きな価値を持つものとして教えられている(マタイ25:35、ローマ12:13、テモテ第一3:2、ヘブル13:2など)。特にこの勧めは、使徒や福音宣教者など旅を続ける兄弟たちを念頭に置いたものであった(マタイ10:9–13、ヨハネ第三1:5–8など)。また当時のキリスト者が苦難と迫害の中にあったため、この勧めは特に重要であった。「不平を言わずに」という表現は、もてなしが時間と費用を要する難しい行為であることを示している。しかし不平を言う者は真に愛している者ではないのである。

10節は賜物に関する勧めである。
「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」
人はそれぞれ与えられた賜物に従って、良い管理者のように仕えなければならない。賜物は多様であり様々な形で与えられる。それは平均的でも画一的でもない。したがって、賜物を受けたキリスト者は自分の賜物だけが重要であると考えてはならない。それぞれの場所で賜物に従って仕える人々を尊重すべきである。最も重要なのは、賜物は自己実現や自己発展のためではなく、共同体の関係の中で奉仕するために与えられているということである。すなわちキリスト者は自分に与えられた賜物や才能を共同体のために用いるのである。

11節では特に、ことばの賜物と奉仕の賜物を受けた者について勧めている。
「1語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。」

神は人を通してご自身のことばを語られる。ゆえに御言葉を語る者は、自分の意志ではなく神のみこころを表さなければならない。この勧めは、人が自分の言葉を神の言葉として語ってしまう危険を警告している。新約時代における神のことばとは福音である。福音を委ねられた者は人を喜ばせるのではなく、心を調べられる神を喜ばせるのである。(1テサロニケ2:4)

奉仕の賜物を受けた者は、自分の力によってではなく、神が備えてくださる力によってふさわしく奉仕するのである。この「神が備えてくださる力」は現在形であり、神が常に新しく与えてくださる力を意味している。ここには自分の力による支配は入り込む余地がない。神から受けた言葉をそのまま語り、神から絶えず与えられる力によって奉仕するとき、人間の自己主張は無力となり、イエス・キリストによって神に栄光が帰されるのである。

人間はこの世界に投げ出された被造物である。人は社会の中ですでに形成された文化や公共生活に従って生きている。しかしそれは神ではない別の源から出た生活であり、肉の業に属する生き方である。ペテロはこのような生活を「放蕩の波」と呼んでいる。そこから離れることは、その波に逆らうことであり、既存の枠組みを破る冒険である。したがって世の人々から疑いと憎しみを引き起こすのは当然である。

ある哲学者は、他人のまなざしは権力であると言った。まして放蕩の波に流されている他人の視線は、それに逆らう者に地獄を経験させる力として働く。ではどうすればその流れに逆らい、他人の視線に屈しないでいられるのか。それは、肉体の苦難を受けて罪を終わらせられたキリストのよろいを身に着けること以外に道はないのである。もし不思議に思われ、中傷される者がいるとすれば、それはキリストである。私たちはそのキリストの中に隠されているのである。

キリスト者の存在は、消極的には放蕩の波に逆らい、積極的には終末を先取りして経験しながら愛を実践する生き方である。神がキリストにおいてすべての罪を覆ってくださったように、兄弟の過ちを覆い、旅人を喜んでもてなす。また、それぞれに与えられた賜物によって共同体を建て上げる。特に御言葉の賜物を受けた者は神から受けたとおりに語り、奉仕の賜物を受けた者は神がその都度与えてくださる力によって仕える。そのとき私たちのすべての働きは、イエス・キリストによって神に栄光を帰することになるのである。

私の黙想

私は長い間、人の視線を恐れて生きてきた者であった。牧会の務めに就きながらも、心のどこかで常人の目を意識していた。怠けの津波、伝統の津波、そして人間中心の津波が、幾度となく私の信仰と牧会を覆い尽くそうとした。どのような道を通ろうとも、結果として人々の支持を得ることができれば、それを真理であるかのように思い込んでしまうことさえあった。

だが、本当に恐ろしいのは、そのような錯覚の中にいる自分自身に、少しも気づいていなかったことである。私は知らぬ間に光を見失い、闇の中を歩んでいたのであった。

神は忍耐深い、同時に、生ける者と死んだ者とを裁かれるお方。人の裁きはしばしば無慈悲であるが、神の裁きには尽きることのない憐れみが伴う。人は本質的に利己的であり、自分自身には驚くほど寛容である。しかし御言葉の光に照らされたとき、私の罪は、もはや弁明の余地すら残さなかった。

私は死に値する者であった。それなのに主は、どうしてこのような者の咎を覆い、いのちの道へと導いてくださったのか。

それでもなお、私は時として怠けの津波に呑み込まれそうになる。鎧を着けずに戦場へ向かう兵士はいない。霊的な戦いのただ中にあることを知る者は、一瞬たりともキリストの武具を脱ぐことはできない。肉体の苦しみを受け、罪を断たれたキリストを身にまとうのである。

そのとき、人は罪を退け、逆らって歩み始める。罪と妥協しないゆえに嘲られ、憎まれるのであれば、それはむしろ光栄である。もはや私が恐れるべきものは人の目ではない。ただ主のまなざしだけである。
御言葉の賜物を託された者は、たとえ命を失うことがあろうとも、その言葉に他のものを混ぜてはならない。人を意識すれば、知らず知らずのうちに人を喜ばせようとする誘惑に絡め取られてしまうからである。だからこそ私は、人の目には盲目となり、福音を委ねてくださった主のまなざしに、自らの目を据えたい。

使命を終えるその日まで。ただお一人の聴衆である主のまなざしの前に立ち続けたい。そしてそのまなざしの中に生きることを、私は心から願っている。

黙想の祈り

神様……
罪が津波のように人々を飲み込んでいます。だれ一人としてそれに立ち向かえる者はおりません。ただキリストだけが、肉体において苦しみを受けることによって、罪を断ち切られました。私もまた同じ心をもって苦しみを受けることによって、罪を断つことができますように。肉体として残された時を数える知恵をお与えください。生きてきた日々よりも、これから生きる日々の方がだんだん少なってきます。過ぎ去った日々を振り返ると、そこにあるのはただ恥ばかりです。人の目を恐れ、怠けの津波、伝統の津波に飲み込まれてきました。

ああ、神様……
本来なら死ぬべき者を、あなたは憐れんでくださいました。そして、日ごとに御言葉をもって私のもとに来てくださいました。数えきれないほど現れる罪と過ちを、すべて覆ってくださいました。新たな命を与えてくださいました。この恵みさえ担いきれないのに、さらにいのちの福音を宣べ伝える務めまで与えてくださいました。どうして福音に他のものを混ぜることができるでしょうか。福音を託された者として、どうかそれを純粋に語らせてください。

神様……
これほど多くの恵みを受けながらも、なおしばしば人の目を気にしてしまう者です。他者の視線が、私にとって権力のようになることがあります。どうか右にも左にも偏らせないでください。生きている者と死んだ者をさばかれる神、あなただけを恐れる者としてください。終わりの時を前もって味わいながら、目を覚ましている者としてください。過ちを覆う愛、旅人をもてなす愛をもって歩ませてください。あなたが私に与えてくださった賜物によって、共同体を建て上げることができますように。神が絶えず与えてくださる力によって仕えさせてください。私に与えられているすべてのものを通して、ただ神にのみ栄光を帰することができますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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