ピレモンへの手紙 1:1‐12

[ピレモンへの手紙 1:1‐12] 1キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、2姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。3私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。4私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。5あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。6私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。7私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。8ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、全く遠慮せずに命じることもできるのですが、9むしろ愛のゆえに懇願します。このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、10獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。11彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。12そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。

本文の注解

ピレモンへの手紙はパウロが書いた手紙のなかで一番短くて、個人的な手紙である。そして、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙とともに獄中書簡と呼ばれる。この手紙が書かれた時期は書いた場所と密接な関係がある。この手紙の中では、書いた場所について見過ごす。しかし明らかなのは、パウロがこの手紙を書いたとき、彼は獄中に閉じこまれていたことである。伝統的に彼が閉じ込められていた場所は、彼が2年間抑留されたローマと捉えている。その場合、この手紙が書かれた時期はA.D.60年頃と推定される。

ピレモンへの手紙は四つに分けられている。
①あいさつ(1-3節)
②感謝の言葉(4-7節)
③本論(8-20節)
④締めくくり(21-25節)

①あいさつ(1-3節)
1キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、2姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。3私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

パウロは自分を指して「使徒」ではなく、「キリスト・イエスの囚人」と呼ぶ。そしてテモテも同じ状況に置かれている。物理的な監禁であろうが、霊的であろうが、使徒は主と福音のために宿命的に制約されることがある。彼はそれを自己認識していた。

この手紙の受取人はピレモンと姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、そしてピレモンの家にある教会である。パウロにとってピレモンは愛する同労者である。

パウロはピレモンが住んでいるコロサイには直接は行ったことはない(コロサイ2:1)。しかし、ピレモンは、パウロがエペソに滞在している間に彼に会い、彼を通して福音を聞いて、クリスチャンになったと思われる。それ以来、ピレモンは福音のために献身的だったと思われる。確かなことは2節に「あなたの家にある教会へ。」とあるように彼の家に教会があったという事実である。
姉妹アッピアはピレモンの妻、アルキポはピレモンの息子だと推定される。また、アルキポはコロサイ教会の指導者として出ている(コロサイ 4:17)。
最後の受取人は家にある教会である。この家の教会(共同体)はエルサレムの共同体が出来た後に形成された(使徒の働き2:46・5:42)。そのあと、ローマ、コリント、コロサイにも教会として形成される(ローマ16:5・1コリン16:19・コロサイ4:15)。パウロが家の教会を受取人として言及したのはオネシモを再び受け入れることのためである。人を受け入れる問題は、ピレモン個人の関心事ではなく、共同体の全体の関心事であるからである。

パウロは受取人たちに自分がよく使う言葉で挨拶をする。私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように(3節)。

②感謝の言葉(4-7節)
4私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。5あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。6私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。7私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。

パウロがピレモンにこの手紙を書いたのはある目的があったからである。それは、ピレモンが自分のところから逃逃げ出した奴隷(しもべ・召使い)のオネシモを再び受け入れることを望むことにある。それで彼は本論を話す前にピレモンの信仰を誉めながら感謝の言葉を述べている。パウロはピレモンが聖徒たちに与えた愛を聞いて知っている。これはピレモンに福音を伝えてくれたパウロにとって大きな喜びであり、大きな慰めであった。そしてビレモンから愛された聖徒たちが安心を得たと言う。

パウロはピレモンについてこのように評価することで、ピレモンが彼に損害を与えて逃げたオネシモを信仰と愛の中に受け入れることを期待する。この手紙が共同体の中で読まれたとき、ピレモンは尊敬するパウロからの言葉で、心が開かれたと思われる。

オネシモのための懇願(8-12節)
8ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、全く遠慮せずに命じることもできるのですが、9むしろ愛のゆえに懇願します。このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、10獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。11彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。12そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。

パウロは使徒としての権威を用いてピレモンに命じることもできた。しかしパウロは使徒としての権威を用いるよりも、へりくだって年長者の立場で愛のもとに懇願している。神の国の価値観では、へりくだっている者が最も偉大な人である。獄中で生んだわが子オネシモとために懇願している。「獄中で生んだわが子オネシモ」という表現は福音によってオネシモに永遠のいのちが与えられたことを意味する。

たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。(コリント人への手紙 第一 4:15)

オネシモという名前には、「役に立つ」という意味がある。しかし、彼はピレモンにとって役に立たない者であった。「しかし今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっている。」と言っている。ここで「しかし今は」という接続詞は、彼の前の生活とその後の生活が区別されたことを強調する。

オネシモはピレモンの奴隷(しもべ・召使い)だった。しかし奴隷という身分が役に立たないことではない。人が役に立つか立たないかとなるのは、クリスチャンとなる回心がその分岐点になる。原罪の本質は、人は自己中心的に考えるということにある。誰でも回心の以前の人生は自己中心的に考え、他人は役に立たない者とする。役に立たないものとするだけでなく、自分の益のために他人に害を及ぼす存在である。ところが、そのような人が回心すると、もはや自分のために生きるのではなく、他人のために生きていく(第2コリント5:15)。他人に役に立たない存在から役に立つ存在に変わる。

パウロはそのオネシモをあなたのもとに送り返す(12節)。そして、パウロはオネシモのことを「彼は私の心そのもの」と呼んだ。これは彼とパウロは一つであることを意味する。したがってオネシモがピレモンに行くことはパウロ自身が行くことと同じである。そしてオネシモは、かつての主人であったピレモンが、自分をどう扱うか分からない状況で危険を抱いて主人のピレモンに行く。おそらく、この手紙はオネシモの手によってピレモンに伝わったと思われる。

ピレモンとオネシモの関係は主人と奴隷である。主人と奴隷ともにパウロを通してキリストに導かれてクリスチャンになった。ところが、二人の間にはまだ問題が残ってある。オネシモは主人に害を及ぼして逃げ出した。当時、逃亡奴隷は専門的に追跡訓練を受けた奴隷ハンターによって逮捕されることが多かった。そして逮捕された奴隷たちは十字形になることもあった。

驚くべきことは逃げた奴隷オネシモが閉じ込められたパウロにあったことである。多分、オネシモは主人のピレモンからパウロについて何か聞いて彼に助けを求めたのではないかと思われる。
パウロがキリストにあって彼に与えたのは、人生の反転、存在の変化であった。オネシモはパウロが伝えた福音を通してキリストに導かれて、以前は役に立たない存在であったが、今は前と違って役に立つものとなった。

パウロは主人か奴隷かの身分にかかわらず、差別なく愛と信頼の中に彼らに接する。このように、キリスト・イエスの中では、どんな人でも、地位や条件によって差別されない。彼らはすべてキリストのイエスの中で一つ。誰もが神の家族である。

そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(コロサイ人への手紙3:11)。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3:28)こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ人への手紙2:19)

私の黙想

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別する。(ヘブル4:12)

私は使徒ではないが、同じ福音を伝えている。しかしなぜ、使徒パウロの心と私の心はこんなに違うのか。正直に外に出さないだけであって、私の中には差別がある。不満もある。あんなに心と時間を注いて仕えたのに結局のところ、うちの教会から離れた人々は二度も受け入れたくないという心もある。ところが、パウロは主人であろうが、奴隷であろうが、差別することなく、へりくだった姿で、愛によって人をキリストに導いていた。そして主人から逃げて、役に立たない奴隷であったオネシモを受け入れ、オネシモのことを「彼は私の心そのものだ」と言っている。そしてピレモンと彼の家にある教会に彼を受け入れるように懇願する。

御言葉が鋭い剣となって私の心を刺し通っていく。今まで、自身が伝えた福音を聞いてどれぐらいの魂がキリストに導かれて永遠のいのちを得たのか。心を一つにして「彼は私の心そのものだ」と言える人はいるのか。そしてどんな状況の中でも福音を通して得た魂を信頼して委ねることができる愛の同労者や戦友はいるのか。自分の行動によって、他の兄弟姉妹たちは励まされているだろうか。

願うのはピレモンの家にある教会のように、うちの教会も誰も差別を受けることなく、自己中心的な心を捨てて愛のうちにキリストにあって一つになることだ。

黙想の祈り

神様、主人であろうが、奴隷であろうが、福音を聞いて、キリストに導かれたすべての人は誰もが同じ神の家族であります。パウロはオネシモのことを彼は私の心そのものと言っています。
神様の恵みの中で開拓してから10年目となりました。欲張って一人でも多くの人に福音を伝えようという考えばかりで、今まで、主が送ってくださった一人一人に対する私の関心・愛・信頼・慰め・励ましはとっても足りませんでした。御言葉に照らして自分の姿を見ると恥ずかしいことばかりです。
これからは教会がキリストにあって一つになり、以前は役に立たない者でしたが、今は、役に立つ者となって、ともにキリストの愛の中で、人生を送ることができるように力となってください。
イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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