黙想の記録2025/02/26

[第一ヨハネの手紙2:1-11]
1私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。 しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。3 もし私たちが神の命令を守っているなら、それに よって、自分が神を知っていることが分かります。 4 神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。5 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。6 神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。7 愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。8 私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。9 光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。10 自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。11 しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。

本文の注解

私たち(いのちの共同体/使徒たち)は、初めからあったいのちのことばについて、知っている。
彼らは、御父とともにあって、現れた御子を信じることによって永遠のいのちだ与えられた。
永遠のいのちは交わることによって実際となって、完成される(喜びが満ちあふれる)。
このようないのちの交わりは、光であられる御父また御子イエス・キリストとの交わりである。

光のうちでの神様との交わりは、罪の告白と赦しがある交わりである。神との交わりを維持するためには、日々の罪の告白が必要である。

もし罪を犯したことがないと言うなら、その人のうちには神のことばはない(1:10)。
従って、御言葉の前で、犯した罪を告白するなら、神様は赦してくださる。すべて の不義からきよめてくださる(1:9)。
私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられる(2:1)。
この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物である(2:2)。

ヨハネが、これらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである(2:1)。
これは、絶対に罪を犯さなくなるという意味ではない。習慣的な罪から解放されるということである。
また、永遠のいのちを得た者が、罪に対して真剣に考える必要がないという意味として1:8-10節を誤解することを警戒するために付き加えたことである。

3ー11節は、神を知っていることが神の命令を守っていることであることを述べている。
神様との交わりは、神様を知ることである(ヨハネ17:3)。
そして、神様を知ることは御子のうちにとどまることである(2:24ー25・4:13)。
また、神様のうちにとどまることは、愛のうちにとどまることである(4:16)。

3-11節で、神を知っている(4節)と、神のうちにとどまっている(6節)と光の中にいる(9節)と言う人がいる。彼らはいわゆるグノーシス主義的の偽りの教訓を主張する人々である。
問題はそのように主張している人々に兄弟に対する愛があらわれてないことである。

兄弟への愛は神様の命令であり、キリストが模範となっている3・6節)。
従って、この命令を守ることによって神様を知っていると言える(3節)。
しかし、神を知っていると言いながら、その命令を守って いない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はない(4節)。
従って、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているので、それによって、自分が神のうちにいることが分かる(5節)。
神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければならない(6節)。

私たちが、神様を知ることは、キリストがお見せになった愛のよって兄弟を愛することである。
キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです(第一ヨハネ3:16節)。

7-11節は神様の命令が、兄弟への愛であることを具体的に述べている。
ヨハネは7節で「愛する者たち」と呼びながら勧めている。
ヨハネは新しい命令ではなく、初めから持っていた古い命令に対して書いている。
彼らが聞いた古い命令は、彼らがはじめて信じるときに聞いた命令であった。
これは、当時のグノーシス主義的偽りの教師たちが、初めから持っていた命令から離れて、もっと優れた命令があると主張することを反映する言葉である。

しかし、ヨハネは8節で、新しい命令として、もう一度書いている。
それなら、彼らが初めから持っていた古い命令と、今、ヨハネが書く新しい命令とはなにが違うのか。
それは終末論的な意味としての新しいものである。
闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからである。
日の下には新しいものは一つもない(伝道者の書1:9)。
しかし、万物上の永遠のいのちの御言葉は常に新しい。
聖徒たちが初めて聞いた御言葉、つまり、神様の命令は、古い命令であるが、新しい命令となる。

9節は4と6節と同じく、グノーシス主義の偽りの教師を狙った言葉である。
光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいる。
グノーシス主義の偽りの教師たちは、自ら光のうちにとどまっているという。
しかし、彼らには兄弟への愛がないそれ故に今でもまだ闇の中にとどまっている。
それに比べて、自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがない(10節)。

闇と光が互いに排他的な対立の概念のように、憎しみと愛もそうである。
ここで兄弟に対する中立的な関係は排除されている。
兄弟を愛するのか。憎むのか。
光のうちにとどまるのか。闇のうちにとどまるのか。二者択一があるだけである。
愛の対象である「兄弟」は信仰の兄弟だてではなく、隣人も含む。

11節の結論は9節を繰り返して強調する。
自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分からない。闇が目を見えなくしたからである。

御父は、御子イエスキリストを愛された。
御子イエスキリストは、父なる神様を愛し、服従なさった。
御霊は、ご自分の姿を隠し、父なる神様と御子イエスキリストのお働きをなさる。

永遠のいのちのある人生は、神様との交わりのうちに神様からいただいた愛をもって兄弟を愛することにある。

私の黙想

今日の御言葉はかなり重い。
神様との交わりの真正性は兄弟を愛することにある。
そうでなければ、グノーシス主義の偽りの教師たちと変わらないことである。

どれぐらいのクリスチャンが、自分は神に対して知っていると言っているのか。
どれぐらいのクリスチャンが、自分は神様のうちにとどまっていると言っているのか。
どれぐらいのクリスチャンが、自分は光のうちにとどまっていると言っているのか。

私自身は言うこともない。

兄弟に対する愛がなければ、嘘つきであり、その人のうちに真理はない。
闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかもわからなくなっちゃう。
闇が目を見えなくしたから。

身体が震える。
なぜなら、私は兄弟への愛に対して限界を持っている。
愛すると言っても、自己中心的な判断による愛である。
愛に対する補償を求める。それが挫折されると、怒りに包まれる。
これは妥当な怒りであると思っていた。
しかし、それが、闇となって私の目を見えなくし、イエス様の愛さえも奪ってしまう。
何日も憤ったまま過ごしたときもあった。

このような私を主の前に正直に告白し、主の憐みを求む。

黙想の祈り

神様。
兄弟への愛がない交わりは、偽りであり、真理はありません。
グノーシス主義の偽りの教師たちと何が違うでしょうか。

神様。
身体が震えます。
いくら頑張っても、イエス様の愛をそのまま隣人に流す自身がありません。
私の心は依然として、自己中心であり、欲のままに動こうとしています。
私を憐れんでください。
御言葉によって起こさせてください。

イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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