聖書の黙想2025/09/01

第一ヨハネの手紙2:28-3:10の黙想

28 さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。29 あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。6 キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。7 幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。9 神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。10 このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

本文の注解

ヨハネの手紙第一が書かれた背景は明らかである。
それはグノーシス的な偽教師たちが「いのちの交わり」を脅かしていた状況である。
したがって第一ヨハネの手紙を黙想したり解釈する際に、このような背景を無視してしまうと、御言葉の本来の意味をゆがめることになる。

読者たちはイエスをキリストと信じて神から生まれた者、すなわち永遠のいのちを得た者である(5:1)。
一方、偽教師たちは永遠のいのちの実体を持たず、口先だけで神を信じると言い張っている。
彼らは「神を知っている」「神のうちにとどまっている」「光の中を歩んでいる」と主張している(2:4, 6, 9)。
しかし実際には彼らは神から生まれた神の子ではなく、悪魔から出た者たちである。

2:28–3:24は「神の子どもであること」と、そこから生じる「兄弟愛」のテーマを扱いる。
2:27では、神の子どもは油注ぎ(聖霊)の教えを受け、主のうちにとどまるよう勧められた。
そして2:28は「主にとどまりなさい」という勧めで始まり、直前の箇所とつながっている。
神の子どもたちが主のうちにとどまるべきなのは、主が現れるときに大胆に御前に立ち、恥じることがないためである。

2:29は3:1につながっている。
もし神が義なる方であることを知っているなら、義を行う者はみな神から生まれた者であることも知るべきである(2:29)。
神から生まれた者、それこそが「神の子ども」である。
では、私たちはどのようにして神の子どもとなったのか。
それは神が私たちに大いなる愛を注いでくださったからです(3:1)。

「3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」

世が神の子どもを認めないのは、彼らが神を知らないからです(3:1b)。
世が神の御子イエスを認識(理解)できなかったように(ヨハ 8:14; 16:3)、世は神の子どもたちも認識ない。
世が神を知らなかったからである(ヨハ 5:37; 7:28; 16:3)。
つまり、世が神の子どもを認識(理解)することができないということは、世が御子を憎んだように神の子どもも憎むということである。

「18 世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。19 もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハ 15:18-19)

しかし、神の子どもの本当の姿は、主が現れる時(再臨の時)に明らかになる。
その日を待ち望む神の子どもは、世の憎しみの中にあっても、自分を清く保つべきである。

「2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」(3:2-3)

4–10節は「神の子ども」と「偽教師たち」を対比しています(3:10参照)。
神の子ども … 義を行う者、主にとどまる者、兄弟を愛する者。
偽教師 … 不法を行う者、主を見ず知らない者、兄弟を愛さない者。

4節「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。」
これは信者を指すのではなく、罪がないと主張する偽教師を指している。
1:8で、偽教師たちは「自分には罪がない」と主張した。
彼らは「自分は罪から解放されたので、もはや罪はない」と思い込んでいたのである。
これに対する反応は、「いや、彼らは不法の罪がある」ということである。
「罪とは不法である」という言葉は、偽教師への非難である。
つまり、彼らは罪がないという幻想の中にいながら、実際には「不法」に陥っているこという非難である。
結局、彼らは不法を行うことで罪を犯す者だ(罪を犯している者はみな、律法に違反している)。

読者たちが知っている通り、罪を取り除くために来られたのはキリストお一人である(3:5)。
5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
そして、キリストにとどまる者はだれも(私たちも)、罪を犯さない(3:6)。
しかし、罪を犯す者は彼を見ることも、知ることもできない。
ここで「罪を犯す者」とは、キリストの外にいる者、すなわち偽教師を指している(4:罪を犯している者は)。

したがって、神の子どもは偽教師に惑わされてはならない。
偽教師は「罪を犯している者」であり、神のこどもは「義を行う者」である。
すなわち「義を行う者」は、キリストが正しい方であるように、正しい人である(7節)。

義を行う者は神様に属した神のこどもである。
しかし、罪を犯している者は、悪魔から出た者でである。
悪魔は初めから罪を犯しているし、その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れた(8節)。

5節、「罪を取り除くために現れたキリスト」は8節で「悪魔のわざを打ち破るために、現れた神の御子」である。「キリストの中にとどまるもの」は罪を犯さない(6節)。
9節、「神から生まれた者」は罪を犯さない。
これは神の種がその人のうちにとどまっているからである。
その人は罪を犯せない。 神から生まれたからである。

神から生まれた「神の子ども」は罪のない「キリストのうちにとどまるもの」である。
その時、彼は罪を犯さず、罪を犯すこともできない。
「神の種がその人のうちにとどまっている」ということは「神から生まれたこと」を象徴的に意味する。
罪のないキリストの中にとどまる者は罪を犯さず、神の種がある者(神から生まれた者)も罪を犯さない。

一方、1:8-10節では罪を犯さないと主張する偽りの教師たちを警告する。
神のこどもであっても罪を犯すことがであるということと、罪の自白と許しが必要であることを証拠する。
ところが、この言葉は「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。」という言葉と矛盾しているように見える(9節)。
注目すべきは6節、罪のない「キリストのうちに」とどまる者は罪を犯さないということである。

神の子は罪を犯さない可能性を持っている。
これが神の種がその人のうちにとどまっている者は「罪を犯さない」という意味である。
そして、罪を犯さない可能性は常に実現されなければならない。
それは常に罪のないキリストのうちにとどまる。
だからといって、常にこの可能性を実現すると主張するなら、それはグノーシス主義的の完全主義の発想である。

このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりとなる。
すなわち、神のこどもはキリストのうちにとどまり罪を犯さず、義を行い、兄弟を愛する。
しかし、悪魔のこどもは常に罪を犯す者であり、それは兄弟を憎んでいることによって明らかになる。
「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。」(10節)。

永遠の命を得た者が罪を犯さないためには、常に「キリストのうちに」とどまらなければならない。

しかし、肉体を持った人にとっては現実的に不可能なことである。
それで1:8節では「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分 自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」という。
したがって「罪を犯さない」という言葉は「引き続き罪を犯さない」(not continues to sin)という意味として受け入れなければならない(NIV)。

一方、ヨハネ書簡の権威であるヤン・ガブリエル・ファン・ダ・ヴァットは、1章8–10節と3章6節・9節における「罪」という言葉は、それぞれ異なる意味で用いられていると述べている。
ヨハネ第一の手紙3章6節と9節における「罪を犯すことができない」という表現は、神から生まれた者、すなわち神の子どもにふさわしい態度を示しているのだと彼は言う。
したがって、「罪を犯すことができない」という言葉は、神の御心に反することを「行わないであろう」あるいは「考えたくもない」という意味で解釈すべきである、と彼は解説している。

彼の解釈が重要なのは、罪を犯すことや、誤った行いを行うことは、正常な聖徒の生き方ではないということにある。正常な聖徒なら罪を憎み、神の御心に反する行為をしないことを望む。
それでもそのようなことをしたなら、直ちに罪を自白して罪の赦しを受け、罪から離れることになる。
これが神様のこどもになった証拠である。

すべての生命体は本性がある。
地から生まれたアダム的のいのちは罪を犯すことがその本性である。
彼は生まれつき悪魔のこどもであり、罪から逃れる方法がない。
しかし、神は御子を遣わし、悪魔のわざ(罪)を滅ぼし、罪から救ってくださった。
何よりも御子キリストを信じる者に永遠のいのちを与え、神の子どもになるようになさった。
なんて驚くべき愛なんだろう?「天の父神様がどんな愛を私たちに与えたのか?」

今や、天から与えられた永遠のいのちは、罪を犯さないようにする本性を持っている。 すべてのことにおいて神の御心に従って生きようとする心、罪を犯すまいとする熱望がある。 しかし、弱さゆえに罪を犯すと、罪悪感と自らを罪ある者とする意識によって苦しむ。 その罪を直ちに告白し、赦しを受け、キリストにあって神との交わりを回復する。 その時、罪から解放され、義を行い、兄弟を愛する。

私の黙想

私はクリスチャンホームで生まれた。
しかし、神様の恵みを知る前までは、本性のままに悪魔に属し、罪を犯しながらも、
偽教師のように生活を送った。
皆がそう生きているのだから、自分も仕方がないのだと思っていた。
そのまま滅びに至る者であったが、神は正しく良いお方であった。

ああ、そのような者を神の子とされるとは!
神の子とされたこの愛がどれほど大きいのか、御言葉を通して思わず叫ぶ。
「見よ、神様がどんなに大きな愛を私たちに与えてくださったことか。それによって私たちは神の子と呼ばれるのだ!」
この愛を受けた私は、再び来られる主に望みを置く者である。
その望みを持つ者は、主の清さに倣って純潔であることを願い求める。

しかし、神の子とされた身分が純潔な生き方を保証するのではない。
日々、罪を取り除かれたキリストのうちにとどまるときのみ、純潔に生きることができる。
私の内には、あらゆることにおいて神の御心に従い、罪を犯さずに生きたいという渇望がある。
だが、常に主の御心に従い、生きるわけではない。
肉をまとった私は、完全主義者ではない。
いのちの本性とは異なり、罪と否定性にしばしばつまずく者なのである。

だから今日も、自分の過ちと不純を告白し、憐れみを求める。
神の種があるとはいえ、弱さに取り囲まれる者として、主の憐れみと慈しみによって一日を生きる。
罪の告白と赦しに頼りながら一日を歩む。
神からただでいただいた憐れみを、多くの人に施しながら生きたい

黙想の祈り

ああ、神様…
悪魔に属する罪の本性のままに生きていた者です。
それでいながら義人のふりをしていたのですから、私の罪がいかに大きかったことでしょう!
しかし、あなたの愛はあまりにも大きく、私の罪を赦してくださいました。
「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」という言葉が、私の心の奥深くを突き刺します。

ああ、神様…
この大きな愛を受けた者が、どうして罪の中にとどまることができましょうか?
それでも私は弱く、つまずき、罪を犯してしまいます。
神の子は罪を犯さない。
罪のないキリストのうちにとどまる者は罪を犯さない。
主よ、私はあなたの子どもとされたのですから、
どうか一瞬一瞬、主のうちにとどまらせてください。
御子の命をささげて私を子とされたのに、どうして悪魔の子のように生きることができましょうか?

ああ、神様…
今日も無力な自分を、罪と汚れを告白します。
裁く者を裁いた罪を告白します。怒りの汚れを吐き出します。
どうか信仰によってキリストのうちにとどまり、純潔な人生とならせてください。
御子の死と葬り、そして復活にあずかり、清い命として生きることができますように。
私が私であるのは、ただ限りないあなたの愛と恵みです。
ただで受けた愛と恵みを、ただで与える者とならせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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