聖書の黙想2025/09/02

第一ヨハネの手紙3:11-24の黙想

11 互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。12 カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを 捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。19 そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。20 たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。21 愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。22 そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。23 私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。24 神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神も また、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。

本文の注解

第一ヨハネの手紙はグノーシス主義的な偽教師たちを警戒し、信徒たちに勧めを与えている。
偽りの教えによる惑わしは、「永遠のいのち」を知り、また「永遠のいのち」に生きることによって克服される。
「イエスがキリストである」と信じる者は神から生まれた者、すなわち永遠のいのちを得た者である(5:1)。永遠のいのちの現実とは、御子と御父のうちにとどまることである(2:24–25)。
これは御子を通して御父に近づく霊的秩序によって実現する(ヨハネ14:6)。
これを一言でいえば「主にとどまること」である(2:27–28)。

2:18–27での「主にとどまる」とは「正しい信仰」にとどまることを意味する。
2:28–3:24での「主にとどまる」とは「正しい行い」を実践することを意味する。
まず、神の子としてキリストにとどまる者は義を行う。
義を行うことと兄弟を愛することは並行する。
反対に、悪魔の子は罪を犯し、兄弟を憎む。
このことによって、神の子と悪魔の子とが区別される(3:10)。

11–12節では、悪しき者、すなわち悪魔に属して弟を殺したカインが例として挙げている。
ヨハネはまず、互いに愛し合うよう勧める(11節)。
これは直前の4–10節の結論であり、続く12–24節の標題である。
カインは悪しき者に属して弟を殺した。

15節で兄弟を憎む者はみな、人殺しですとある。
カインは弟憎み彼を殺した。
その理由は、自分の行いは悪く、弟の行いは義であったからである。
ここに、神に属する者と悪魔に属する者、義の行いと悪の行いとの対立が示される。

13節、「世はあなたがたを憎んでも」とある。
悪を行う者は義を行う者を憎み、殺す。
神の子は世から憎まれ、世と敵対となる。
世は永遠のいのちを知らないゆえに、永遠のいのちを得た者を憎み、殺す。
人のわざを求める世的な教会もまた、命の共同体を認識せず、かえってそれを憎むことさえある。
しかし、世からの憎しみこそが、命の共同体が真実である証拠である。

14節、兄弟を愛することによって、自分が死から命に移されたことを知る。
光の中にいると言いながら兄弟を憎む者は、暗闇にいる(2:9)。
同じように、兄弟を愛さない者は死にとどまる(3:14)。
兄弟を憎む者は殺人者であり、そのうちに永遠のいのちはない(3:15)。

16節以降では、兄弟愛の模範が示される。
兄弟愛の根拠は、キリストが私たちのために命を捨てられたことにある。
キリストは私たちのために、ご自分のいのちを 捨ててくださった。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきである。
神の愛は、自分の兄弟が困っているのを見てその人に対してあわれみの心を持つ者にある。(17)
しかし、憐れむ心だけ持ってことばや口先だけでの愛は兄弟愛ではない。
愛とは、行いと真実をもって示される(18節)。

そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。(19節)。
たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。(20節)。

ことばや口先だけの愛ではなく、行いと誠実さによっての愛は、神の御前で確信を与えてくれる。
もちろん、私たちは神の御前に完全な者ではないので、自らを責める(咎める)心を完全に取り除くことはできない。
そのためどうしても自己を咎める意識を持つことになるが、もし私たちが兄弟愛を実践するなら、その咎めの意識は神の御前で消えるであろう。
何よりも、すべてをご存じの神が、私たちが兄弟愛を行うことによって、私たちが真理に属していることを知ってくださるからである。

21節は「愛する者たち」で始まる。
これは兄弟愛を守り行う人々への愛の呼びかけである。
自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができる。 そして、求めるものを何でも神からいただくことができる(22節)。

それは、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからである。
神の命令を守ることと、神の御心にかなうことを行うことは並行する(重複的な表現である)。

神の命令とは、行いと誠実さをもって兄弟を愛することであり、それこそ神が喜ばれることである。
それを守り行う者は、神の御前で革新を得、求めるものを何でも神からいただくことができる。
これまで語られてきた神の命令は兄弟愛であるが、まず第一に御子イエス・キリストの御名を信じることである。
「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」(23節)。

兄弟愛の戒めは、イエス・キリストの御名を信じる信仰に基づいている。
ゆえに、命を捨てられたキリストの愛を受け入れる信仰こそが、兄弟愛の実践へと導く。
ここで信仰と愛は分離できず、愛は信仰に基づいている。
このように、キリストを信じる信仰から兄弟愛を行う者は主の内にとどまる。
そして主もまた、そのような人の内にとどまってくださる。
私たちに与えられた聖霊は、主が私たちの内にとどまっておられることを知らせてくださる。

4〜10節では、神の子どもはキリストの内にとどまるとき罪を犯さないと語られていた。
11〜24節の結論においては、キリストの内にとどまるとき(信仰によって)こそ、行いと誠実さをもって兄弟愛を行うことができると示されている。
そして、私たちがその内にとどまるキリストは、私たちのためにご自身の命を捨てられた愛を実践された方である。

キリストが私たちのためにご自身の命を捨てられたこと、それは最高の愛である。
そしてその愛の実りこそ、私たちが永遠の命を得ることである。

「9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。それによ って神の愛が私たちに示されたのです。10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを 愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての 御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(4:9-10)。

キリストが命を捨てられた愛によって、私たちは永遠の命を得た。
そして、私たちに永遠の命があるということは、キリストが命を捨てられたその愛を、私たちも行うときに実現する。
私たちが実践する兄弟愛は、単なる同情心や施しではない。
兄弟愛の根本は、キリストが命を捨てて与えてくださった「永遠の命」を伝えることである。
それは、永遠の命を得る者は皆、死から命へと移され、悪しき者から離れて神に属する者となるからである。
そして永遠の命を得たという証拠、また永遠の命の共同体の真実性は、信仰に基づいた愛の実践にある。

誰かがどんなに豊かに暮らしていたとしても、その人が死の中にとどまっているなら、なんと惨めなことであろうか。

そのように惨めな人に食べ物や飲み物を与えることが、果たして真の愛だろうか?
もちろん、その人が命を捨てられたキリストの愛によって永遠の命を得るまで、そのような愛も必要である。
なぜなら、人は生きている間に福音を聞いて永遠の命を得るからである。

しかしながら、真の兄弟愛は、命を捨てて与えられた永遠の命を伝えるところにある。
そして永遠の命を得た者は、その永遠の命を生き、また永遠の命を伝える。
これこそが兄弟愛の根本なのである。

私の黙想

私は真実の兄弟愛を知らなかった。

それは、キリストがいのちを捨ててくださったその愛が何であるかを知らなかったからである。

キリストがいのちを捨ててくださったその愛によって、私は永遠のいのちを得た。

ついに死からいのちへと移されたのである。

今や、あらゆる機会をとらえて、キリストがいのちを捨ててくださることによって与えられた永遠のいのちを伝える。

神が遣わされる人々に、いのちの言葉を伝え、それを聞く者にいのちを得させる。

永遠のいのちの本質は兄弟愛であるから、いのちを知らなければ兄弟愛は不可能である。

永遠のいのちに無知であれば、悪しき者に属し、兄弟を憎み、さらには殺すことさえある。

永遠のいのちを伝える務めは、私自身の状況や心配事に縛られてしまうことが多い。

信徒たちが直面している家庭の苦難、病の苦難を思うと、非常に無力であった。

神様ご自身がなされなければならない、最悪の状態に至った人々を思うと苦しい。

無力で立ち上がれない者を、立たせ、御言葉の前に立たせてくださる恵みは、まことに大きい。

心の牢獄から抜け出し、あらゆる機会をとらえて、いのちの言葉を伝えることを切に願う。

私の考え、私の期待とは全く異なる仕方で働かれる神を信頼する。 今日も主の御旨を行うことに励む。

黙想の祈り

神様…
カインに属する悪しき者に、私も属していました。
永遠の命を知らなかったゆえに、兄弟愛も表面的にしか行いませんでした。
ことばや口先だけで愛し、自己中心的に自分と気が合う人しか愛せない者でした。
兄弟を憎むことは殺人することだとありますが、私はどれほど多くの殺人をしたことでしょうか。
肉体を殺さなかったとしても、心を何度も殺してきた者でした。

神様…
何の資格もなく、滅びにしかふさわしくない者に、あなたは恵みを与えてくださいました。
キリストがいのちを捨てられた愛によって、私にいのちを与えてくださいました。
キリストを和解のいけにえとして送ってくださったのは、私にいのちを与えるためでした。
その大いなる愛に、どう応えればよいのでしょうか。
いのちを捨てられたキリストを信じる信仰から生まれる兄弟愛を全うさせてください。
それは、悪しき者に属する人々に福音を伝え、いのちを得させることです。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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