1 愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。 偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。2 神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、 神からのものです。3イエスを告白しない霊はみな、神からのものでは ありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。4子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、 彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。5彼らはこの世の者です。ですから、世のことを話し、世も彼らの言うことを聞きます。6私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私た ちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。7愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。8愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを 愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合 うべきです。12いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、 神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
ヨハネの第一の手紙は、グノーシス主義の偽教師たちを警戒させている。
彼らは「神を知っている」(2:4)、「神の内にとどまっている」(2:6)、「光の中にいる」(2:9)と主張している。しかし実際には、神の戒めである「兄弟愛」を実践していない。彼らは闇に属する者たちである。
グノーシス主義は、肉体を汚れたもの、霊を聖なるものとみなす二元論に基づいている。
教会に入り込んだ偽教師たちは「イエスが肉体をもって来られなかった」と主張する。
「聖なるキリストがどうして汚れた肉体をとることができるのか」という主張はもっともらしく見える。
しかし、ヨハネは4:1–6で、そのような主張は偽りであり「反キリストの霊」であると告げている。
イエスが肉体をもって来られたのを否定する者は、偽預言者であり、反キリストである。
ヨハネは読者を「愛する者たち」と呼びながら、霊を分別するように勧める。
霊をすべて信じてはいけない。なぜなら、 偽預言者がたくさん世に出て来たからである。
その霊が神からのものかどうか、吟味するように促している。
神からの霊を知る方法
それは、イエス・キリストが肉体をもって来られたのを認める霊は神からのもの。
しかし、これを否定する霊は神からのものではなく、反キリストの霊である(2:18、4:3)。
ヨハネは4:4で読者を「子どもたち」と呼ぶ。
彼らは神から生まれ、永遠の命を得た者たちである。
神から生まれた者は偽教師たちに勝利した。なぜなら「あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だから」である。
神から生まれた者、すなわち永遠の命がある者が偽教師たちに勝つ。
5:4節では神様から生まれた者、すなわち永遠の命のある者が世に勝つ。
神から生まれた者、すなわち永遠の命がある者は神のうちにとどまる。
彼らのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大。
だから神から生まれて神のうちにとどまる者は世の偽教師たちに勝つ。
「世」とは神に敵対する存在を指す(2:15)。
偽教師たちは世に属しているので、世に属する言葉を語り、世もまた彼らの言葉を聞く。
一方、神に属する者は真理を語る。
「私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私た ちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。」(4:6)。
神に属する者の言葉は真理をいう。 それは初からある「命の言葉」である。
これは世の中の言葉、すなわち地に属した言葉と起源が違う。
そして、どんな言葉を聞くかによって真理の霊と偽りの霊を見分ける(6節)。
4:7–12では「互いに愛し合うこと」が神から生まれた者の証拠であると語られてある。
「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」(7節)。
愛の源は神である。
「愛は神から来る」(love comes from God)。
神から生まれた者=永遠のいのちを持つ者は、神からの愛を受け、その愛をもって互いに愛す。
永遠の命の本質は「神を知ること」であり(ヨハネ17:3)、その実際の姿は「互いに愛し合うこと」である。
反面、愛さない者はその中に永遠の命がいない(3:15)。
すなわち、愛さない者は神を知る永遠の命がいない。
なぜなら、神は愛だからである。
愛のない者は神を知りません。神は愛だからです(8節)。
9–10節:どのように「神様から来た愛」(love comes from God)が現れたのかを明らかにする。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(9節)。
9節はヨハネ福音書3:16節、ヨハネの手紙一3:1節と並行している。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほ どに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人と して滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3:16)。
神の愛は、私たちが御子を信じて神の子どもとされることにおいて現れている(ヨハネの手紙第一3:1「3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がど んなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えな さい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを 知らないのは、御父を知らないからです。」)。
つまり、神が私たちに示された愛は、独り子を世に遣わし、その御子を通して命を与えてくださったことにある。
10節はヨハネの手紙一3:5節と並行する。
神の子は罪を取り除くために世に現れた(ヨハネの手紙第一3:5)。
愛とはここにある――私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4:10)。
9–10節において、神から来る愛とは「独り子を遣わされた愛」である。
御子は私たちの罪の宥めの供え物となられ、彼を信じる者は命を得る。
したがって救いとは「罪の赦し」と「永遠のいのちを得ること」にある。
しかも命を得ることは、罪の赦しよりも先に約束された恵みである(テモテへの手紙第二1:9–10)。
神はアダムが罪を犯す前、いや、彼が創造される前に命を与えることを約束されていました(テトスへの手紙1:2それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。)
神が独り子を遣わし与えてくださった永遠のいのちは、天地創造の前から約束されていた命である。
アダムが罪を犯しても、その命を与える約束は取り消されることはない。
これこそ神の変わらぬ愛である。
アダムの罪によって、神の愛は「罪の赦し」と「永遠のいのちの授与」という形で現れた。
神が独り子を遣わされたのは、罪を赦し、究極的には永遠のいのちを与えるためであった。
11–12節:ような神様の愛に対する応答として、兄弟愛を教訓にする。
「11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合 うべきです。12いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、 神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」
神から来る愛は、独り子を遣わして「罪の赦し」と「永遠のいのち」を与える愛である。
これを「異種の愛(heterologous love)」と呼ぶ。
つまり、神ご自身と「種(しゅ)」を全く異にする人間のために、御子の命を差し出された愛。
これに対して、人間の愛は「同種の対象」だけを愛する「同種の愛(homologous love)」である。
このように神が私たちに現された愛、すなわちキリストが私たちのために死なれた愛は、徹底して異種の愛である。
この愛は神の本性から流れ出るアガペー(愛)であり、永遠のいのちを得た私たちからも溢れ出る愛である。
それに対して、人間の本性は自分と同じものだけを受け入れる同種の愛(homologous love)を超えることができない。
この同種の愛はエロースであり、一般的に「…のためにする愛」あるいは「人間的愛」と呼ばれる。そこには「同一の一つ」になろうとする強制力が、大きかれ小さかれ必ず働いている。
しかしながら、異種の愛であるアガペーは、互いに異質であるにもかかわらず、「統一的な一つ」を実現しようとする欲求である。したがって、しばしば「…にもかかわらずする愛」あるいは「神的愛」と呼ばれる。
「いまだかつて神を見た者はいません。」(12節)これはヨハネ福音書1:18と並行している。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふとこ ろにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたの である。」(ヨハネの福音書1:18)。
ヨハネ福音書1:18は、歴史における啓示者としての御子の現れを証しする。
ヨハネの手紙一4:12は、互いの愛を通して神の現れを証している。
このように、独り子を通して現れた神の啓示(ヨ1:18)と兄弟愛(ヨ一4:12)は一つである。
すなわち、御子によって命を受けた者は、互いの愛を通して神を現す。
永遠のいのちの共同体が行う愛は、神から来る異種の愛。
私たちが行う異種の愛の独自性は以下の点にある。
1.自分とは全く異なる種、すなわち命のない者のために命を捨てる愛である。
2.神が「先に」愛されたように、主体的に「先に」愛する。
3.神がすべての人のために独り子を与えられたのに(Ⅰテモ2:6)、すべての人が信じるわけではないように、見返りや報酬を期待しない愛である。
4.私たちが罪人であり敵であったときに愛されたように、相手を変えようとせず、そのまま受け入れる愛である。
そして、この異種の愛だけが魂を命へと導く。一方、人間の同種の愛は、愛すれば愛するほど死へと導く。
私は救いの本質的な内容に無知であった。
罪の赦しとしての救いだけを知り、永遠のいのちを得る救いには無知であった。
もちろん、口では永遠のいのちを得たと言っていたが、その実際を知らなかった。
そのために神の愛を知ることができず、常に疑っていた。
万物の状況を通して神の愛を確認しようとしていた。
そのような者が、神から生まれた者、すなわち永遠のいのちを得た者となり、神を知る永遠のいのちの生活を生きるようになった。
永遠の命を与え、永遠の命の生活を送らせてくださったこと、これ以上の大きな愛はない。
なぜなら、神の愛は独り子を遣わし、その方を通して命を与えることによって現れたからである。
ああ、私が受けた愛は神から来た「異種の愛」である。
今回この箇所を黙想し、学びながら「異種の愛」と「同種の愛」という神学的な言葉を知るようになった。
永遠のいのちを知るまでの私の愛は、徹底的に「同種の愛」であった。
相手を愛しながらも変化を要求し、代価を望む利己的な愛であった。
口では愛していると言いながら、結局は自分の欲望を満たす手段となってしまった。
今や私は「異種の愛」に目を開かれ、その愛をしようと努めている。
しかし、私には異種の愛の資源が全くない。
日ごとに御言葉の前で惨めな自分を発見する。
そのような者を、そのまま受け入れてくださる神の異種の愛を受ける。
「互いに愛し合いなさい」とは、日ごとに受けて行う愛、神から来る愛によって行う愛である。
まずは永遠の命の共同体の中で、そして種の異なる世の人々へこの愛を行う。
まことに、いまだかつて神を見た者はいない。
しかし、私たちが互いに愛し合うことによって、神が私たちの内に現れる。
今日も人を生かす神の「異種の愛」の日となることを祈り求める。
神様…
兄弟を愛すると言いながらも、死へと導いてしまいました。
人間の同種の愛は、愛すれば愛するほど恐ろしい結末をもたらします。
相手を自分のようにしようと、相手を変えようと、たゆまず努めました。
それも「愛している」という名目でそうしました。
神様…
いくら見ても無価値な者、そのような者のために御子を遣わしてくださいました。
私の罪のために、和解のいけにえとして送られ、罪を赦してくださいました。
独り子を遣わし、その方を信じる者に命を与えてくださいました。
ああ、神の愛がこのように現れました。
罪の赦しと、命を得る救いとして現れました。
もはや、あなたの愛を疑いません。
あなたの愛をさらに求めもしません。
ただ、受けた愛のように互いに愛する者とならせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
