聖書の黙想2026/02/04

ペテロの手紙 第一 3:1-12

1同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。2夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。3あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。4むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。5かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。6たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。7同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。8最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。9悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。10「いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願う者は、舌に悪口を言わせず、
唇に欺きを語らせるな。11悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。12主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。」

本文の注解

使徒ペテロは、この世にあって旅人・寄留者として生きる信徒たちに対し、世の中でどのように生きるべきかを勧めている。キリスト者は世から(from the world)救われた者であるが(使徒2:40)、同時に世の中で(in the world)生きる者である。新約聖書に見られる「家庭訓(ハウスターフェル)」は、国家・社会・家庭という枠組みの中で生きるキリスト者の生活を規定している。

このような家庭訓は、キリストにおいて行われた神の救いの御業に基づいている。すでに救われた者は、やがてキリストが再臨されるときにもたらされる恵みを望み見て生きる。現在の救いと最終的な救いの間に生きるキリスト者は、必然的に苦難を受ける。しかしその中でも、全能の神の力によって守られている。まさにこの信仰に基づいて、私たちキリスト者は世のさまざまな制度に対して善い行いをもって従い、神の麗しい徳を宣べ伝えるのである。

3章1–7節は、国家および奴隷に続く夫婦に関する家庭訓であり、8–11節では最後に、すべてのキリスト者に対する勧めが語られている。新約聖書は、妻に対して夫と同等の地位と価値を与えている。これは、女性を劣った存在と見なし、差別すべきだとする古代の支配的思想とは明らかに対立する。日本においても、長い間「男尊女卑」の思想が支配的であった時代があったと言われている。しかし、キリストにあっては、男女に対するあらゆる差別は廃され、キリストにあって一つとされている(ガラテヤ3:28)。とはいえ、本来的な性差や社会的機会の不均等が消滅したわけではない。そのため、夫婦に関する家庭訓は、当時の家父長制的構造を反映している。

1–7節に見られる夫婦の家庭訓は、夫婦関係に関するユダヤ教の生活規定とほぼ一致している。しかし、不信仰な夫が救われるという点(1b節)や、善を行いつつも恐れてはならないという勧めは、キリスト教的家庭訓に特有のものである。1–6節に示される妻への勧めは、キリスト者の妻と不信仰な夫が共に生活していることを前提としている。

妻たちは、同じように自分の夫に従うべきである。「同じように、」という導入句は、キリストの従順に根拠づけられた奴隷の従順を例示している。キリストは不当な扱いを受け、十字架で死なれた。しかしその十字架の死は、私たちを罪に対して死なせ、義に対して生かす救いをもたらした。

同じように、妻の従順は、みことばに従わない不信仰な夫を救いへと導く。ペテロの手紙において「みことば」とは「福音」である(1:23,25)。妻は、不信仰な夫に対して「宣べ伝えること」ではなく、「行い」によって福音を伝える。最も近しい相手への伝道は、「言葉」ではなく「生き方」なのである。

では、夫は妻のどのような行いを見て救われるのだろうか。それは、妻の神を恐れる純粋な生き方である。すなわち、夫に対する敬虔で純潔な従順の行為である。夫たちは、仮面のない家庭生活の中で妻をつぶさに見るようになり、そのことを通してキリスト教信仰の現実と出会うのである。

3節において、妻の敬虔で純潔な行いは、外面的な装いではなく内面的な装いにあると語られる。
「3あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。4むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」

聖書は、女性が過度に着飾り、贅沢に走ることを批判してきた(イザヤ3:18以下、Ⅰテモテ2:9)。新約時代の犬儒派(キュニコス派)、ストア派、ユダヤ教においても同様であった。しかしこの書簡の著者は、外面的装いへの警告にとどまらず、内面的装いを強調する。すなわち、内なる人を、朽ちることのない柔和で静かな霊によって飾りなさいと語るのである。それこそ、神の御前で価値あるものである。(4節)。

女性の内面的装いは、旧約聖書にも例が示されている。かつて神に望みを置いていた聖なる女性たちも、このように自分自身(内なる人)を飾り、夫に従った(5節)。その一例がサラであり、彼女は夫アブラハムを「主」と呼び、彼に従った。したがって、妻たちが善を行い、どんなに恐ろしいことがあっても恐れないなら、サラの娘となるのである(6節)。

著者は、キリスト者の妻たちを「サラの娘」と呼ぶ。キリスト者の妻がサラの娘であるというのは、キリスト者が霊的にアブラハムの子孫であること(ガラテヤ3:7,29)を反映している。キリスト者の妻の行いは、信仰から生まれる善行である。ここで、恐れずに従うことは、単なる隷属ではないことが強調されている。アブラハムは二度もサラを妹だと偽り、異邦の王たちに引き渡した。

書簡の著者は、サラが恐れの中で隷属したのではなく、恐れを超えた信仰から生まれる行動として従ったと理解している。この点が強調されるのは、キリスト者の妻が、不信仰な夫から信仰を捨てさせようとする脅しを受ける状況を前提としているからである。キリスト者の妻は、信仰の問題において、不信仰な夫を恐れたり、勇気を失ったりする必要はない。ましてや奴隷のように隷属してはならず、自由人として、尊敬と礼節と従順の態度を取るべきである。

もっとも、この勧めが、すべてのキリスト者の妻と不信仰な夫との関係を一律に規定するわけではない。パウロは、キリスト者の配偶者によって不信仰な配偶者が聖なる者とされると語っている(Ⅰコリント7:14)。これはペテロの手紙の勧めと一致する。しかし、不信仰な配偶者が別れることを望むなら、平和のために別れなさいとも勧めている(Ⅰコリント7:15)。これは、絶えず不和の中で生きる最悪を選ぶよりも、別れて平和に生きるという次善を選びなさい、ということである。人間の多様な人生には、善と悪のどちらか一つしか選べない状況だけでなく、二つの悪のうち、やむを得ず一つを選ばなければならない状況も存在する。

7節は、夫に対する家庭訓である。妻に対する家庭訓に比べ、夫への勧めは非常に短い。1–6節に登場する夫が不信仰者であったのに対し、7節で言及される夫はキリスト者である。妻もまた、いのちの恵みを共に受けるキリスト者なのである。

「7同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。」

夫は、妻が自分よりも弱い器であることを理解し、共に生活しなければならない。また、キリスト者の夫婦は、いのちの恵みを共に相続する者であるがゆえに、夫は妻を尊重しなければならない。夫も妻と同様、ただ恵みによって永遠のいのちを相続するのである。これを知る夫は、家庭で独裁者のように振る舞ったり、同じいのちを受けた妻を軽んじたりすることはできない。永遠のいのちは、キリストの死によって与えられた賜物である。弱い者をつまずかせることは、キリストがそのために死なれた者をつまずかせることであり、キリストに対して罪を犯す恐るべき行為である。

「つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。」( コリント人への手紙 第一 8:11-12 )。

とりわけ、夫が妻を尊重すべき理由は、祈りが妨げられないためである。これは、夫婦不和や口論によって祈る気力を失う心理状態を指すのではなく、祈ることのできる霊的態度そのものが根本的に欠けている状態を念頭に置いた言葉である。愛と尊敬を欠いた人間関係は、神との関係をも抑圧し、断絶させる(マタイの福音書5:23–24、ヨハネの手紙第一4:20)。

8–12節では、家庭訓に続いて、すべてのキリスト者に対する最後の勧めが語られる。8–9節は著者自身の一般的勧めであり、10–12節は旧約聖書の引用による勧めである。

「8最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。」

「みな、一つ思いになり、」という表現は、共同体全体への勧めである。2:1では捨てるべき五つの悪徳が挙げられていたが、ここでは身につけるべき四つの徳が示されている。同情、愛、優しい、謙虚は、罪人に対する神のご性質である。これは、自己中心的態度から利他的態度への転換を求めるものである。

9節の追加的勧めは、敵に対する報復の禁止、さらに一歩進んで彼らを祝福せよという命令である。
「9悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」

ここでは、共同体を中傷し、害を加える敵対的な周囲の世界に対して、どのような態度を取るべきかが語られている。世の法は、悪には悪で、侮辱には侮辱で報いる。祝福ではなく、呪いを返す。しかしキリスト者は、世の法を超えた神の法によって敵対者に応答する。敵を悪で報いることは、結果的に悪を生み出すことになる。勧めの頂点は、復讐せず、むしろ祝福せよ、という点にある。そのためにこそ、私たちは召されたのである。

2:21の「このためにこそ、あなたがたは召されました」と、3:9の「あなたがたは祝福を受け継ぐために召された」は並行している。不当な主人に従う奴隷の姿は、私たちのために苦しみを受けられたキリストの足跡に従うことである。であるならば、敵を罵ったり復讐したりせず、かえって祝福することもまた、苦難を受けられたキリストの足跡に従うことなのである。

10–12節では、旧約聖書の引用によって8–9節の勧めが裏づけられる。ここで引用されているのは詩篇34篇12節以下である。
「いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと日数の多いことを愛する人は。あなたの舌に悪口を言わせず唇に欺きを語らせるな。悪を離れて善を行い平和を求めそれを追い続けよ。主の目は正しい人たちの上にあり主の耳は彼らの叫びに傾けられる。主の御顔は悪をなす者どもに敵対し主は彼らの記憶を地から消し去られる。」( 詩篇 34:12-16 )

「いのちを喜び」における「いのち」(ゾーエー)は、7節と同様、永遠のいのちを指す。古い命を憎み、新しいいのちを喜ぶ者は、終末の日を指し示す「幸いな日」を見ることを願う。その人は舌を制して悪を語らず、唇を閉ざして偽りを語らない。悪を離れ、善を行い、平和を追い求める。なぜなら、主の目は正しい人たちの上にあり、その願いを聞いてくださるからである。しかし主の御顔は悪をなす者どもに敵対し主は彼らの記憶を地から消し去られる。神は二種類の人々に向き合われる。義人に向かうことは慰めを意味し、悪人に向かうことは脅威と裁きを意味する。

苦難を受けられたキリストの足跡に従って従順に生きることは、奴隷や妻だけでなく、すべての信徒に与えられた勧めである。妻の従順は、不信仰な夫に救いの機会を与える。罪人に示された神のご性質をもって共同体の肢体に接し、敵に対しても復讐せず、むしろ祝福する。これは人間の本性に逆らう苦難の生である。しかし、このような生は救いの歴史を成し遂げ、祝福を受け継ぐ栄誉ある生なのである。

キリスト者は、あらゆる状況において、苦難を受けられたキリストの足跡に従う。堕落した人生において、苦難は避けられない。人が苦難を背負って生まれてくるのは、火花が上へと舞い上がるのと同じ理である(ヨブ5:7)。それゆえ、赤子は泣きながら生まれてくるのかもしれない。宗教の本質は、抗うことも理解することもできない苦難の問題を扱う点にある。イスラム教では、苦難は理解しがたい神の御心として受け入れられるべきものとされる。ユダヤ教では、苦難の原因は罪であり、犠牲のいけにえによって罪を取り除くことが解決の道である。仏教では、人生は苦の海(苦海)であり、執着から離れて正しく生きることが解決である(八正道)。

キリスト教において、苦難は「解決」されるのではなく、「解釈」される。神と分離された人間は疎外された存在であり、外的な苦難の有無にかかわらず、不安にとらわれ、最終的には絶望に至る。このような人生の苦難は、死の力に捕らえられ、それに奴隷として仕えているからである(ヘブル2:14)。イエス・キリストは、人間が受けうる最悪の苦難をその身に負われた。神の御子でありながら、苦難を通して従順を学ばれた(ヘブル5:8)。そして死によって死の力を滅ぼし、死の力に奴隷として縛られていた人々を救われた(ヘブル2:14–15)。

もちろん、救われて新しいいのちを得たキリスト者も苦難を受ける。しかしそれは死に至る苦難ではなく、キリストの足跡に従う栄誉ある苦難である。私たちは神の子であり、永遠のいのちの相続者である。すなわち、神の相続者であり、キリストと共に相続する者なのである。

私たちがキリストと共に苦難を受けるのは、キリストと共に栄光を受けるためである(ローマ8:17)。今の時の苦難は、やがて私たちに現される栄光とは比べものにならない(ローマ8:18)。これを知る者は皆、キリストの苦難の足跡に従い、あらゆる人とあらゆる状況において、喜びをもって従順の生を生きるのである。

私の黙想

「いのちの恵み」を受けた者それは、まことに栄光ある称号である。いのちの恵みは、私一人が受けたものではなく、救われたすべての聖徒が共に受けた恵みである。もし私が受けたこのいのちの恵みが尊いのであれば、他の聖徒が受けた同じ恵みもまた尊い。最も身近なところでは、共に生活する妻である。いのちの恵みを共に受けた者たちの集まりである共同体は、何と祝福に満ち、尊い存在であろうか。

しかし、いのちの恵みを受けた者には、その価値にふさわしい高貴な生き方が求められる。それは、キリストの苦難の足跡に従うことであり、すなわち、この世にあって服従の生を生きることを意味する。御霊によって照らされる御言葉の前に立つとき、私はあまりにも恥ずかしく、惨めな存在であることを思い知らされる。私は、キリストの苦難の足跡に従う生よりも、日陰を避けて陽だまりを求める生を歩んできた。とりわけ、対立する者たちに対しては、パリサイ人的な頑なさをあらわにしてきた。
このために召されたのだ、という使徒の勧めは、敵対する者に対しても、キリストがなさったように接しなさい、ということである。永遠のいのちを愛し、終わりの日を待ち望んでいながら、舌を制することができず、悪に悪で報い、侮辱を耐え忍ぶことのできない――そのような二重的な姿が、私の内には満ちている。ああ、今日もまた、御言葉に告発されるこの惨めな自分を、そのまま受け止める。そして、そのような者が、十字架にかかられたキリストを仰ぎ見るのである。私が私として生きるなら、百戦百敗である。ただ、私の内にキリストが生きてくださることを、切に願い求める。

黙想の祈り

神様……
私は「いのちの恵み」を受けた者です。しかし、その恵みを日々の生活の中で空しくしてしまう者でもあります。すべての信者は、私が受けたのと同じ「いのちの恵み」を受けた者です。いのちの恵みを共に受けた者たちです。そこに、どうして差別があり得ましょうか。最も身近に生きる妻も、共同体の一人ひとりも、さらには名も知らぬキリスト者たちも、皆いのちの恵みを共に受けた者たちです。
どうか、私を利己的な欲望に盲目にする目を閉じ、彼らを尊い存在として見ることのできる目を開いてください。

ああ神様……
いのちの恵みを受けた者は、心を尽くして兄弟を憐れみ、愛し、慈しみ、他者を自分よりも優れた者として尊ぶ謙遜をもって歩むように、とあなたは命じられています。しかし、私の内には善なるものがありません。どうか、あなたの慈しみと真実を、私の内に注いでください。父がキリストにあって私を扱ってくださったように、私もまた彼らをそのように扱うことができますように。とりわけ、敵対する者たちに対して、キリストのように振る舞うことができますように。私は、そのために召されたのです。

神様……
キリストにあって、苦しみは「解決」されるものではなく、「解釈」されるものです。世の人々は苦しみを不幸と見なします。しかし、キリストにある苦しみは救いをもたらし、終わりの日に、キリストと共に栄光を受けるものです。どうか、服従の生から生じる苦しみを、喜びをもって受け取ることができますように。それは、やがて現される栄光とは、比べることもできないからです。
いのちを愛し、終わりの日を見る者は皆、唇を守り、悪から離れ、善を行い、平和を求めるでしょう。義なる者を見守られる主の御前で歩ませてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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