聖書の黙想2026/03/13

ペテロの手紙 第一 5:1-14

1私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。2あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。3割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。4そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。5同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」
のです。6ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。8身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。9堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
11どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。12忠実な兄弟として私が信頼しているシルワノによって、私は簡潔に書き送り、勧めをし、これが神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みの中にしっかりと立っていなさい。13あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会と、私の子マルコが、あなたがたによろしくと言っています。14愛の口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。

本文の注解

ペテロの手紙一5章は最後の勧告である。1–6節では使徒ペテロが教会の長老たちと若者たちに勧めを与え、7–11節では信徒たちに苦難の中で信仰を堅く保つよう勧めている。12–14節は最後の挨拶である。

1–4節:長老たちへの勧め
ペテロは自分自身を長老と呼び、同じ長老たちに勧めている。また彼は、キリストの苦しみの証人であり、キリストが来られるときに栄光を共に受ける者として自らを紹介する。

ペテロはイエス・キリストから遣わされた使徒であり、教会において長老の立場を持っていた。彼は自ら苦しみを体験し、キリストの苦難に参与した者である。したがって彼が苦難について勧めることは、単なる理論ではなく体験から出た勧告である。彼が受けている苦しみは、やがてキリストが再臨されるとき栄光として現れる。

初代教会における「長老(presbyter)」は、宗教改革以後に言われる平信徒指導者とは異なる。当時の長老は、使徒たちの伝承に従って福音を宣べ伝える教会の指導者であった。2節では長老は神の群れを牧する羊飼いにたとえられている。神の民を羊の群れにたとえる表現は、旧約聖書にもすでに見られる(イザヤ40:11、エゼキエル34:1以下)。

新約聖書では、イエスご自身が自らを牧者とし、信者を羊の群れにたとえられた(ヨハネ10:14)。またペテロの手紙一2:25でも、羊の牧者はキリストである。したがって長老という牧者は、自分勝手に行動する者ではなく、キリストの務めを委ねられて遂行する者である。復活された主がペテロに三度「わたしの羊を飼いなさい」と言われた通りである(ヨハネ21:15–17)。

牧者として長老は神の羊の群れを養う教会の指導者である。彼らに禁じられているものは二つある。利益を貪る所有欲と、人を支配しようとする支配欲である。

したがって彼らは牧者の務めをいやいや行うのではなく、神のみこころに従って自発的に、喜んで行わなければならない(2節)。また、任された群れを支配しようとするのではなく、群れの模範となるべきである(3節)。

そうすれば大牧者であるキリストが現れるとき、しぼむことのない栄光の冠を受ける(4節)。ローマ社会では、競技の勝利者や戦争の勝利者に冠が授けられた。しかしそれはやがてしおれてしまう冠である。ところが大牧者が忠実な牧者に与える冠は、決してしおれることのない栄光の冠である(Ⅱテモテ4:8、ヤコブ1:12、黙示録2:10)。

5–6節:若者たちへの勧め
ここで言われている若者とは、長老のような地位ではなく、年齢的に若い人々を指している。彼らに長老に従うよう勧めているのは、若者たちがある面で長老たちと異なる意見を持っていたからだと思われる。例えば若者たちが独自の活動を展開したり、迫害のときに別の戦略を主張した可能性がある。

若者が長老に従うのは、謙遜から生まれる態度である。しかし謙遜は若者だけに求められるものではなく、すべての信者に求められる(5節)。ギリシア社会では「謙遜」は美徳ではなかった。しかしキリスト教において謙遜は、イエスの模範に従うことであり非常に重要な徳である。
イエス・キリストは神と等しい方でありながら、ご自分を空しくして僕の姿を取られた(ピリピ2:6–7)。そして人として来られ、自らを低くし、死に至るまで神に従われ、十字架で死なれた(ピリピ2:8)。

謙遜と従順はコインの裏表のようなものである。謙遜なしに従順はありえない。神は高ぶる者を退け、謙遜な者に恵みを与えられる。水が低い所へ流れるように、神の恵みは謙遜な者に臨む。
しかし人間の本性は謙遜とは正反対の高慢である。アダム以来、人間の共通のDNAは「神のようになろうとする傲慢」である。

神の本性は謙遜であり、人間の本性は高慢である。では人間はどのようにしてこの高慢を克服し、謙遜に至るのだろうか。人間は神の力強い御手の下にあるときにのみ謙遜になれる。
「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(6節)したがってクリスチャンの謙遜は、卑屈な態度ではなく、神の全能の御手の下にある証拠である。

7–9節:追加の勧め
ここで三つの勧めが語られる。
第一に、すべての思い煩いを神にゆだねること(7節)。なぜなら神が彼らを顧みておられるからである。ピリピ4:4–6によれば、思い煩いは主にある喜びを奪う要因である。クリスチャンであっても人生に思い煩いがないわけではない。思い煩いを神にゆだねるとは、祈りと願いをもって感謝とともに神に申し上げることである(ピリピ4:6)。すると、人の理解を超えた神の平安がキリスト・イエスにあって心と思いを守ってくださる(ピリピ4:7)。

第二に、身を慎み目を覚ましていること(8節)。この命令には終末論的動機がある。キリストの再臨を待ち望み、精神をしっかりと保ち、目を覚ましていなさいということだ。 この節では、敵である悪魔が吠える獅子のように飲み込む者を探し回っているからである。 最後に滅びる敵は死(悪魔)である。

悪魔は終末が近づくほど、自分が滅びることをよく知っている。 そのため、終末が近づくにつれて、吠える獅子のように獲物を探し、信者を惑わす。 ここで苦難と迫害に関する二重の視点が提示される。 神は苦難と迫害を通して信仰を試し、鍛錬を成し遂げておられます(1:7)。 一方、悪魔は苦難と迫害を通じて背教させ、自らの餌食にする。 まさにこれが、私たちが精神を保ち、目を覚ましていなければならない理由である。

第三に、信仰に堅く立って悪魔に抵抗すること。すべてのクリスチャンが同じ苦しみを経験していることが思い起こされる。苦難は特定の人や地域だけのものではない。全世界の信者が共有する経験である。苦しみは分かち合うとき軽くなる。悪魔に対抗する武器は信仰である。

10節:あらゆる恵みに満ちた神、神はクリスチャンの戦いの傍観者ではない。強力な同盟者である。神は救いに招くだけでなく、最後まで恵みによって導き、永遠の栄光に至らせてくださる。

12–14節:結びの挨拶
ペテロはシルワノの手によってこの手紙を書いた。彼は苦難の中にいる信徒たちを励まし、これが神のまことの恵みであることを証している。信者はこの恵みの中に堅く立つべきである。
また、バビロン(ローマを象徴する)にいる教会とマルコの挨拶を伝える。マルコは「私の子」と呼ばれているが、これは霊的な子を意味する(Ⅰコリント4:15、ピレモン1:10)。

愛の口づけによる挨拶は、初期キリスト教の礼拝の一部であり、兄弟愛のしるしであった。最後にペテロは、キリストにあるすべての人に平和があるようにと祈って手紙を終える。

私の黙想

私は主の羊の群れを牧する、牧者であるが、羊の群れになにを与えているだろうか。主の食物である命を与えるものではなく、朽ちてしまう食物を信徒たちに与えているのではないだろうか。

群れの数が多かろうと少なかろうと、主から託された羊の群れを、まるで自分の羊であるかのように思い違いし、主人のように振る舞い、彼らを支配しようとする。そのような牧師は、信徒が他のところで恵みを受けることを耐えることができない。高慢は神に逆らうことであり、滅びの先頭に立つものである。

大牧者が現れるときを、私は慎みと恐れをもって待ち望んでいる。日々、神の御手の下でへりくだることを切に願う。現世の思い煩いを主に委ね、神の平安が私の心と思いを守ってくださることを祈る。慎み、目を覚まし、悪い悪魔に立ち向かう。恐れによってではなく、すでに勝利された主を信頼して立ち向かうのである。私を召してくださった神が、永遠の栄光に入るその日まで私を導いてくださると信じている。その日を見つめながら、今日もまた、私に与えられた永遠の命の戦いを続けていく。

黙想の祈り

神様…
主の羊の群れを委ねられたにもかかわらず、私はそれを正しく導きませんでした。主は「わたしの羊を養いなさい」と言われましたが、私は朽ちる食べ物を与えてしまいました。たとえごく小さな教会であっても、高慢ならず、へりくだりイエスキリストの福音をつたえるように導いてください。

ああ神様…
「わたしの羊を養いなさい」という主の御声を聞きます。福音を委ねられた者として、心を探られる神の御前で歩ませてください。大牧者が現れるその時を、恐れとおののきをもって待ち望ませてください。支配する態度を捨て、模範となる者とならせてください。自ら進んで仕える心で、喜びをもってささげさせてください。主の働きの中で生まれる欲望を、十字架につけます。
ただで受けたのですから、ただで与える者とならせてください。

神様…
目を覚まして悪魔に立ち向かうことができるようにしてください。悪魔がほえたける獅子のように、だれかを飲み込もうとして探し回っていることを悟らせてください。すべての思い煩いを主に委ねます。すべての恵みの神が私たちを召し、永遠の栄光へと導いてくださることを信じます。道の途上で苦難に遭っても、主ご自身が私たちを救い出し、強め、堅く立たせてくださることを信じます。権威は世々限りなく神にあります。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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