テトスへの手紙 1:10-16

2022年2月23日

聖書箇所
[テトスへの手紙 1:10-16]
10実は、反抗的な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けている人々の中に多くいます。
11そのような者たちの口は封じなければなりません。彼らは、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、いくつかの家庭をことごとく破壊しています。
12クレタ人のうちの一人、彼ら自身の預言者が言いました。「クレタ人はいつも噓つき、  悪い獣、怠け者の大食漢。」
13節この証言は本当です。ですから、彼らを厳しく戒めて、その信仰を健全にし、
14ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている人たちの戒めに、心を奪われないようにさせなさい。
15きよい人たちには、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた不信仰な人たちには、何一つきよいものはなく、その知性も良心も汚れています。
16彼らは、神を知っていると公言しますが、行いでは否定しています。彼らは忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。
本文の注解

パウロがテトスをクレタに残した目的は二つの整理するべきことがあったからである。
一つは偽りの教訓を教える教師たちから教会を守る(保護)こと。もう一つは指導者を立つたせることであった。

1:10-16節は教会を崩らせる人たちの実際を明らかにしている。
反抗的な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多くいる。特に、割礼を受けている人々の中に多くいること。
そのような者たちの口は封じしなければならない。
彼らは、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、いくつかの家庭をことごとく破壊している。

クレタ人のうちの一人、彼ら自身の預言者が言った「クレタ人はいつも噓つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」と。この証言は本当である。

従って、彼らを厳しく戒めて、その信仰を健全にし、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている人たちの戒めに、心を奪われないようにしなければならないのだ。
きよい人たちには、すべてのものがきよいのだが、汚れた不信仰な人たちには、何一つきよいものはなく、その知性も良心も汚れている。
彼らは、神を知っていると公言しているが、行いでは否定している。
彼らは忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格である。

パウロが排斥しようとした異端思想はユダヤ教に起源を置いている(10節「割礼派」14節「ユダヤ人」)。
反抗的な者、無益な話をする者、人を惑わす人々の中に、割礼を受けているユダヤ人が多くいる。
彼らは異邦の地に住むディアスポラのユダヤ人である。
彼らの口を封じるべき理由は恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教えているからである。それによって家庭が破壊されていく。ここでの家庭は家庭の教会共同体を意味する。
第一テモテへの手紙6:3-5によると恥ずべき利益を得るための教えは違ったことの教えである。
3違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない者がいるなら、4その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じます。5これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです。(第一テモテ6:3-5)

福音を正しく理解しないと、利益の手段として「違った教え」つまり(教えてなならないこと)を教える。
教会はただ福音で建てられるが、割礼派と名乗る者たちは神に対する誤った教えを伝える。
そうして自分の利益を図るが、これによって教会が崩れる。

パウロはクレタの一人の預言者の言葉をかりってクレタの人たちの罪を明らかにする。
「クレタ人はいつも噓つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」

パウロはクレタ人の嘘、野蛮、快楽の追求を指摘している。
クリスチャンはかつてそのような部類に属していたが、そこから救われた。
従って、テトスはクリスチャンに彼らを正しく信仰の上に立たせて、彼らの違った教えに耳を傾けないようにしなければならない。
ここで違った教えは福音ではなく、ユダヤ人の作り話や真理ではない言葉である。

クリスチャンは常に神様の御言葉に耳を傾けなければならない。
新約時代の神様の御言葉(福音)は力があり(へブル1:3)真理であり(コロサイ1:5)キリストについてのことば(ローマ10:17)である。
この御言葉、すなわち福音は救いに至らせる。そして救われた者の信仰を丈夫にさせる。
15また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。16聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。17神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(Ⅱテモテ3:15-17)

福音によってしっかり立たないと真理ではないユダヤ人の作り話に従うようになる。
14節のユダヤ人の作り話はⅠテモテ1:4・4:7、Ⅱテモテ4:4、Ⅱペテロ1:16にも出て来る。特にⅡペテロ1:16は巧みな作り話と訳されてある。

今日も、神について教える指導者たちが福音を正確に知らなければ、時代に合わされた巧みな話で魂を惑わせて自分の欲望を満たす。
つまり、恥ずべき利益を得るために「聴衆にやさしいメッセージ」を伝えるのに、正しくみ言葉の上に立たなかった者たちは、彼らの「命令」に続々と従う。
これは、指導者と信者の両方を滅びの穴に導く不幸で恐ろしいことである。

きよい人たちには、すべてのものがきよい。しかし、汚れた不信仰な人たちには、何一つきよいものはない。
イエスキリストの福音は、本質的に罪によって汚れていた者たちをきよくしてくれる。
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。(テトスへの手紙 3:5)

しかし、福音を信じない人はそれ自体が汚れたものである。
その知性も良心も汚れている。
彼らは、神を知っていると公言しますが、行いでは否定している。
正しい福音に無知な人は神を知っていると主張する。
16節の知っているとはギリシャ語のοἶδα (オイダ)である。これは「何に対して知っている」という意味で、霊的な意味として「知る」のγινώσκω(ギノースコオー)とは区別される。
彼らは、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者たちである。聖書はこういう人たちから避けなさいと教えている。(Ⅱテモテ3:5)

私の黙想

昨年、開拓して間もない時から、まるで本物の家族のように接しながら共に信仰生活を送っていた人が教会から去った。
彼が教会を去る前の何週間、彼は教会には来てはいるが、彼の中に喜びはなかった。私は何とかして彼の気持ちを変えさせようと自分なりには頑張っていた。
しかし、その頑張りは彼に届かなかった。何が問題なのかと考え続けた。

ある日、彼と話しながら、彼がそのようになった複雑な、理由が分かった。そして説教にも不満があるように感じ取った。
それで、私は彼が教会から離れないように、彼の気持ちが変わるように、もっと頑張ろうとしていた。彼が好きな牧師や先生たちの説教を一生懸命に聞いて説教に取り入れ説教した。しかし、不思議にそうすれば、そうするほどに彼はもっと遠くなっていた。

寂しかった。

そして、その寂しさは逆に怒りとなり彼に対して怒りを抱くようになっていた。
その自分は、牧師としての失格がないと落ち込み。あげくには私の中にもだんだん喜びが失せていた。

その時の説教こそ、ユダヤ人の作り話、また、Ⅱペテロ1:16の巧みな作り話だった。

彼は教会のなかで、いろんな面で影響力があった。それで私は彼が教会から去るのを恐れていた。私は恥ずべき利益を得るために「彼にやさしいメッセージ」をしようとしていた。

福音を伝えても罪の勢力は私を騙す。
作り話で人々が反応するように巧妙に私を騙そうとする。
有名な牧師の説教を真似して、聴衆にやさしいメッセージをしようとする誘惑が染み込む。
しかし、わたしは望む。私を生かし、私にいのちの福音を委託なさったキリストの前で伝えることを。

黙想の祈り
ああ、神様。
今も私の中には私を誘惑しようと動いている罪の勢力あります。
主イエスキリストの血潮で私のすべての貪欲をきよめてください。
人の反応ではなく、主よ。あなたの御前で正しい福音を伝えるようにしてください。
反応することも、悟らせることも、私ではなく御霊です。
目を覚まして、あなたの領域に侵入しないように私を守ってください。
イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン