苦難・復活黙想2022/03/06

聖書箇所

[詩篇 22:1ー11]
1わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
2わが神昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。
3けれども あなたは聖なる方御座に着いておられる方イスラエルの賛美です。
4あなたに私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼しあなたは彼らを助け出されました。
5あなたに叫び彼らは助け出されました。あなたに信頼し 彼らは恥を見ませんでした。
6しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。7私を見る者はみな 私を嘲ります。口をとがらせ 頭を振ります。
8「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
9まことに あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
10生まれる前から 私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときから あなたは私の神です。
11どうか私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり助ける者がいないのです。

本文の注解
わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。(1節)
“どうして”“なぜ”
詩人は神様から見捨てられた現実を神様に訴えている。
彼は神様がなぜ自分を見捨てたのか分からない。
神様が苦難から救わず、うめきのことばにもかかわらず遠く離れておられる理由がわからない。

“どうして”
詩篇22篇の題目は指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べにのせて。ダビデの賛歌である。
ダビデは鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神様を慕いあえぐ。
[詩篇 42:1] 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
ラクダは砂漠でもまったく水を飲まずに約1週間以上生きることができると言われている。
しかし、鹿は毎日水を飲まなければならない。
ダビデは鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神様を慕いあえぐ神の人である。

彼は神様と共にいる存在である。

彼の人生は神様とともにすることにより揺るがされることがない。
8私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。9それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。[詩篇 16:8,9]

彼はどんな境遇にあっても願いは一つ、それはいのちの日の限り主の家に住むことであった。
3たとえ私に対して陣営が張られても私の心は恐れない。たとえ 私に対して戦いが起こってもそれにも私は動じない。4一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。[詩篇 27:3、4]

神様は実に彼の羊飼いで彼は乏しいことはなかった。
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。[詩篇23:1]

彼の幸いは、神様から与えられたその何かではなく、神様ご自身であった。
私は主に申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」[詩篇 16:2] 彼は人からまたいろんな状況が与える極端な苦しみも神様がともにいるということにより乗り越えた。

しかし、今、ダビデは彼の信仰である“神様がともにおられる”が脅かされている。
彼のすべてである神様から分離されて、うめきのことばを出している。

分離の苦痛はともにした経験から来る。

母とともにした経験がある子どもこそ、母と分離される苦痛が分かるようである。
そのようにダビデは神様とともにした経験があるから、神様との分離される苦痛を知る。

人は本来神様のなかにとどまることによって神様とともにする存在であった。
永遠の昔、御子が父なる神様に服従して父なる神様のなかにとどまったように。
神の似姿に造られた人間は、神様に従うことによって神の愛のなかにとどまる存在であった。
しかし、最初の人であったアダムは神様に不従順して罪人になった
罪を犯した致命的な結果は神様との分離されることにある。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、[ローマ3:23]

アダムの以後のすべての人は神様との分離された存在として生まれる。
[ローマ人への手紙 5:12]こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──
[詩篇 51:5]ご覧ください。私は咎ある者として生まれ罪ある者として母は私を身ごもりました。

たとえ神様が人の心に永遠を与えられた(伝3:11)といっても、人は神様と連合したことがない故に神様との分離された苦痛が分からない。
勿論、悪と苦痛の現実のなかに生きてはいますが、その根源が神様から分離されたことから来ることは分からない。
あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに悪く苦いことかを。──万軍の神、主のことば。[エレミヤ書 2:19]

しかし、神様の愛は永遠の愛である。
神様は罪を犯し神様と分離され、悪と苦痛のなかに生きる人をあわれむ。
あわれむだけではなく、悪と苦痛のこの世に息子を遣わして人を救う。
イエスキリストが福音であり、福音を受け入れる(信じる)ことによって救われる。
救いは、神様と分離された肉体的(自然的)いのちが十字架に死んで神様のいのちに生まれ変わることである。
御子を信じる(受け入れる)者は永遠のいのちが与えられる。永遠のいのちとは神様とともにいるいのちである。
御子がこの世に来られる前の旧約時代は御子が来られることを約束した御言葉が福音であった。(ローマ1:2)
預言者たちを通して約束された御子を信じることによっていのちがあたえられた者は神様とともにいる存在となった。
へブル人への手紙11章には旧約時代に御子を見なくても信じることによって救われた信仰の先人たちに対して記録している。
代表的にアベル・エノク・ノア・アブラハム・モーセ…ダビデなどである。

特にダビデは神様と深くて親密な交わりの人生だった。
神様がともにおられることは彼のすべてであった。
神様は荒野での試練のときも、戦争の勝利のときも常に彼とともにおられた。

しかし、今日の箇所では神様と分離された苦痛に直面している。
昼に呼んでも答えてくださらない。夜にも黙っていられない。(2節)
神様は聖なる方。御座に着いておられる方。イスラエルの賛美である。(3節)
ダビデはなにより先祖たちが信頼した神様を覚える。
彼らは神様を信頼し神様は彼らを助け出された。(4節)
神様を信頼し彼らは恥を見ることはなかった(5節)
しかし、神様は彼に沈黙している。

彼は虫けらで人間ではない。人のそしりの的 民の蔑みの的である。(6節)
彼を見る者はみな彼を嘲る。また口をとがらせ頭を振る。(7節)
母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。生まれる前から彼は神様にゆだねられた。そして母の胎内にいたときから神様は彼の神であった。
母の胎から一度も彼から離れることがなかった神様。
しかし、今は苦しみが近くにあるのに助ける者がいない。

“どうして”

私の黙想
今は四旬節(レント・受難節)の期間である。
主が私たちの罪のために受けられた苦難と死を覚えるときである。
どんな頑張っても苦難を避けられない人生…

今、私にとって苦難とは何か。どんな意味があるのか。

神の御子は十字架の上で叫ぶ。
[マタイの福音書 27:46] 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

神様に見捨てられた御子の中に私がいる。
御子は一度も神様から分離されことがなかった。ところが、御子は十字架の上で父なる神様から分離される。

キリストは神様と分離された状態で私に来られた。
神様から分離された私を救うために神様と分離された。
分離の苦痛はともにした経験から来る。
主なるイエスキリストにあって神様と分離された私は死に神様のともにいられる永遠のいのちがあたえられた。

救われた

黙想の祈り
ああ、神様。
“どうして”私に永遠のいのちを知らせたのでしょうか。
“どうして”こんな私を永遠のいのちを伝えるものとして選んだのでしょうか。
“どうして”私にこのように恵みを与えてくださるのでしょうか。
“どうして”私をこんなに愛してくださるのでしょうか。
“どうして”
“どうして”なんでしょうか。私はわかりません。

神様の御心を全部知り尽くすことはできませんが、この恵み、この愛、このいのちを正しく伝えるように日々導いてください。
イエス様のみ名によってお祈りいたします。 アーメン。