苦難・復活黙想2022/03/24

聖書箇所

[マタイの福音書 23:1―12]
1そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。
2「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。
3ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。
4また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。
5彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。
6宴会では上座を、会堂では上席を好み、
7広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。
8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。
9あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。
10また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。
11あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。
12だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

本文の注解
当時のエルサレムでは神殿の中では祭司長たちが、外ではパリサイ人と律法学者たちが民たちの指導者の役割をしていた。
特に律法学者たちとパリサイ人たちはモーセの律法と口伝律法を民たちに教えることを担当していた。

ところが、ナザレのイエスの教えに力があることがすでに噂になっていた。
律法学者たちとパリサイ人たちはどのようにしてイエスを言葉の罠にかけようかと相談した。(マタイ22:15)
それで彼らはイエス様にいろんな質問をして困らせった。
しかし、イエス様はそのような質問でも拒まず知恵をもって答える。

そして、イエス様は集まっていたパリサイ人たちに尋ねる。
「キリストついてどう思うのか。彼は誰の子なのか」(22:41)
パリサイ人たちは「ダビデの子」と答えた。
しかし、イエス様は彼らが信じる聖書を根拠にしてキリストはダビデの子ではなく「主」であることを宣布する。(マタイ22:43-44)
[マタイの福音書 22:45]ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
この時以来、誰もあえてイエスに質問しようとはしなかった。

そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。(1節)
自称、指導者であり、先生と呼ばれる律法学者とパリサイ人の実際を明らかにする。
彼らはモーセの座に着いている(2節)
彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねしないようにと注意している。(3節)
彼らは言うだけで実行しないからです。また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せる(3-4節)

彼らがしている行いはすべて人に見せるためである。
彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりする(5節)
彼らの敬虔の姿はその極に達する。
宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることを好む。(6-7節)

イエス様はこのパリサイ人たちを警戒させた後、群衆と弟子たちに教える。
主を従う群衆と弟子たち皆、兄弟である。
先生と呼ばれてはいけない。あなたがたの教師はただ一人である。(8節)
地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけない。なぜなら、父はただ一人、天におられる父だけである。(9節)

また、師と呼ばれてはいけない。師はただ一人、キリストだけである。(10節)
そういうことで一番偉い者は皆に仕える者である。(11節)
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。(12節)

[エペソ人への手紙 4:6]すべてのものの上にあり、すべてのものを貫(つらぬ)き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。

すべてのものの上におられる父はすべてのものの上から子を遣わされた。
神の御子はすべてのものの上に属しすべてのものの王の王、ダビデの主となる。

[コロサイ人への手紙 2:9]キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

[ローマ人への手紙 1:20]神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。

すべてのものは聖なる神様をあらわすときに敬虔の意味を持つ。
パリサイ人たちと律法学者たちは究極的に神様をあらわすことを目的にしていた。
しかし、彼らは自分自身をあらわそうとしていた。

だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(12節)
神様のようになろうと人間の本姓は常に自分を高めようとする。
その私たちが自分を高めようとする本姓をコントロールして低くなる道はこの世にはない。
ただ一つの道。十字架の死を通して低くなれる。
神の御子はすべてのものの上から来られて、死ぬまで服従なさった。
神様は死ぬまで低くされた御子を高くあげられた。
[ピリピ人への手紙 2:8,9]8自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。9それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

私の黙想
信仰生活が長くなるといつの間にか人に見せようとする信仰、敬虔、奉仕となりがちである。
すべてのものの上におられる神様は見えず、地上に建てられた信仰の基準に従って忠実に頑張る。

日本に来て牧師となったその時から「先生」と呼ばれている。
牧師は「先生」と呼ばれている以上は何かを教えなければならないのだ。
聖書に世の知識を混ぜて、できるたけ素晴らしい説教を作り信徒のメンターとなって導く。
そして、「先生」今日の説教は分かりやすく素晴らしかったですよという声か聞きたくなる。

先週、ある信徒さんが私に「先生今の時代にもパリサイ人たちがいますか」と質問した。

いつも人を意識して先生と呼ばれるのが好きで、尊敬される席に座りたい心が常に湧き出す。
その私がパリサイ人だった。
すべてのものの上におられる神様ではなく、自分をあらわそうとする人、その人こそパリサイ人である。

[ガラテヤ人への手紙 1:10]今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。

四旬節、すべてのものの上におられる神様から遣わされ死ぬまで服従されたイエスキリストを覚える。
あ、主の前にひざまずく。そして告白する。師はただ一人、キリストだけである。

黙想の祈り
ああ、神様。
いつの間にか、パリサイ人や律法学者たちのように高くなろうとしていました。
人々に見せるために行動し、尊敬される席を欲しがっていました。
人々に「先生」と呼ばれるのがだんだん好きになっていました。
神様、、
私を十字架に導いてください。
自分を意識し、人々を意識し、高くなろうとする心を釘付けてください。
イエスキリストだけが永遠に至る救いの門です。
イエス様のみ名によってお祈りいたします。 アーメン。